決別05
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 最近は毎日があっという間に過ぎていく。創立祭のあとの期末テストも終わり、六月に入るとなにもかもが通常通りに動き始めた。もちろん藤堂との関係もいままで通りだ。途切れていた連絡もまたいつものように来るようになった。
 音信不通のあいだは、やはり携帯電話の電源が入っていなかったのだとあとから聞いた。その理由までは聞くことが出来なかったけれど、多分彼の母親に関係することなんだと思う。

 その母親はというと、あれからなんのアクションもないと言う。静か過ぎると不気味だと言っていたが、なにもないのならないでそれに越したことはない。でもまあ、最低限の警戒は忘れずにいようとは思っている。万が一ということもあり得るし、いざという時にパニックを起こして失敗などしたくない。

「さっちゃーん、ご飯よ」

「あ、わかった。ちょっと待って」

 リビングから聞こえてきた呼び声に、慌てて手元のキーを打ち送信ボタンを押した。送信完了の文字を目に留めて携帯電話を閉じると、僕は部屋の戸を引いた。

「電話でもしてた?」

「いや、してないから大丈夫」

 全部が通常通りだと言ったが、実際はここだけまだ通常通りとはいかなかった。母の時子は姉の佳奈が出張からまだ戻らず、僕の家にいる。週末だけがいまだに元に戻らない。
 正直言うと藤堂が不足気味ないまの状況は辛いのだが、やはり母を一人にしておくのは心配だ。近所付き合いもあるから、そこまで過保護にならなくてもいいのかもしれないけれど。近所と言ってもすぐ隣に家があるわけではない。そこはもう田舎である所以だ。

「そういえば、優哉くんはいつ遊びに来てくれるの?」

「えっ?」

 急に予想外の名前が出て、心臓が跳ねて変な汗をかいた。声が若干裏返った気がする。

「もうっ! え? じゃないわよ。お母さん前に言ったじゃない。帰る前に一回くらいは一緒にご飯でもしたいって」

「そうだったけ」

 いや、言われたのは覚えていた。でもなんとなくその話題を頭から消去したい気分で、曖昧なまま放置していた。
 藤堂がご飯を食べにくるのは、百歩譲ってそれはいい。でもここに来るのはちょっと不安が残る。我慢をする自信があまりないのだ。家に藤堂がいたら、多分触れたくて仕方なくなる気がする。でもこの狭い家の中で、二人が母の目につかない場所にいるということは困難だ。

「さっちゃんが言ってくれないなら、直接お母さんメールしちゃうわよ」

「えっ、あ、言うよ。今度、聞いてみるから」

 母がメールなんてしたら、藤堂のことだからすぐに来てしまうに違いない。それは困るんだ。もうちょっと藤堂不足を補ってからじゃないと、おあずけ食らいっぱなしでベタベタしたいこの欲求不満状態では本当にまずい。絶対に顔にも気持ちが出るだろう自信がある。そこをどう母を目の前にして言い訳出来ると言うんだ。

「……あ」

「どうしたの?」

「なんでもない」

 我ながら妙案を思いついた。
 ただしその思いつきがそう簡単にうまくいくとは思えないが。でも出来たなら色々と片をつけるにはいいかもしれないと思う。それはかなり強引な思いつきだとは思うけれど、思いついたからには早く実行に移すための準備をしたい。
 疑いの眼差しをこちらへ向ける母を半ば無視しながら、早々に食事を済ませ風呂に入り、寝る準備までを完了させると、僕はさっさと部屋に引きこもった。

「あ、返事来てる?」

 自室に戻ると携帯電話が着信を知らせるランプを点灯させていた。飛びつくようにそれを開けば、予想通りの人物からメールを受信していた。

「二十三時か……あと、十分」

 時計を確認してその時間を待つあいだ、そわそわと落ち着かなくて、たったの十分が随分と長いような気分になってしまう。ベッドの上で正座して待っている姿は実に情けない。
 電話一つでこんなにも気持ちがそぞろになるなんて、本当にいままでの自分では考えられないことだ。でもそんな自分が案外嫌いではないなと最近は思う。馬鹿みたいだと思うけれど、なんだか我ながら人間らしくていいんじゃないかと、そう思えるのだ。もはやこれは開き直りだろうか。

「よし、二十三時っ」

 握りしめている携帯電話の時計が二十三時を示すと、それと同時に携帯電話の通話ボタンを押した。するとコール音が二度三度と耳元で響き、そして途切れた。

「もしもしっ」

 前のめりな勢いで電話の向こうに声をかければ、微かに小さな笑い声が聞こえた。

「いま、笑っただろう」

「……すみません、あまりにも可愛かったので」

 いまだ笑いを堪えているのか、聞こえてくる声がどこか震えている気がする。

「笑うなっ」

「すみません、でもやっぱり可愛い」

「うるさい、可愛くないっ」

 確かにちょっと気合いが入り過ぎていた気はするが、そこまで笑われるとは思わなかった。笑い声が電話口から聞こえてくるのと比例して、じわじわと自分の顔が熱くなってくるのがわかる。

「あ、怒ってますか?」

「別に、怒ってない」

「本当に?」

 耳元から聞こえてくるこちらを窺う声に、むずむずとした気分になる。相変わらず僕は藤堂が時折見せる不安そうな、頼りなげな反応に弱かった。もはや簡単に想像出来てしまうその表情を思い浮かべて、思わずベッドに頭から突っ伏した。

「佐樹さん?」

「本当だってっ」

 どうしようもなく、くすぐったい。多分きっと藤堂は無意識なのかもしれないが、こちらの機嫌を取ろうとする甘えを含んだ声がいつもより柔らかい低音で、たまらなく恥ずかしくなる。

「そう、それならよかった」

「うん」

 先ほどまでのからかうものとは違う、少し安心したような笑い声が心地よくて、浮ついた気持ちが和む。その有り余るほどの幸福感に浸りそうになる自分を誤魔化すよう、伸ばした手に触れた枕を掴み引き寄せる。そしてそれを思いきりよく抱きしめた。けれどいくら気を張ろうとしても、顔が緩んで仕方がない。

 やはり人というものは無理やりに引き離されそうになればなるほど、前にも増して気持ちが強くなるものなんだろうか。騒動の前よりもずっと、藤堂に対する想いがはっきりとした気がする。それはもう自分でもわかるくらい、いままで以上に重症な気がしてどうしようもない気分になる。

「佐樹さん? 聞こえてる?」

「え? あ、悪い」

 ぼんやりと声に聞き惚れてたら、すっかり思考がどっかに飛んでいっていた。

「眠い?」

「いや、そういうわけじゃない」

 心配げな藤堂の声に、余計恥ずかしさが増す。

「明日も早いからそろそろ寝ますか?」

「あ、いや……ん、そうだな」

 これといってお互いに話題があるわけではないが、なんだかんだと時間は過ぎ、かれこれ一時間も話をしている。まだもう少しこうしていたい気持ちもあるけれど、あまり遅くなって藤堂に迷惑や負担をかけるのは忍びない。名残惜しいが、いかなる時も物事の限度を見極めるのも大事だ。

「あ、そうだ」

「なんですか?」

「ああ、うん」

 重要な用事を思い出し思わず声が大きくなる。肝心な思いつきを言い忘れては意味がない。

「藤堂、バイトいま忙しい?」

「え? まあ、それなりに」

「じゃあ、休日に連休取るのは難しい?」

 藤堂のバイト先に暇なんて言葉が存在しないことはわかっているから、ここで駄目なら思いつきは諦めるしかない。

「日曜日とは別に、土曜日もってことですよね?」

「そう」

 普段の藤堂は水曜日と日曜日が休みという固定シフトになっている。稼ぎ時で忙しい休日をそう簡単に空けてもらえるとは、さすがに思ってはいなかったが――。

「多分出来なくはないですよ。いつがいいんですか?」

「え?」

「もしかして、聞いてみただけですか?」

 あっさりと返ってきた言葉に戸惑っていると、こちらを訝しむ声が聞こえてきた。

「あ、いや、ああ、うん。出来れば今月がいいかなって思うけど、お前の都合に合わせる。ちょっと付き合って欲しいところがあって」

「……」

 慌てて言葉を返せば、少し呆れたようなため息をつかれてしまった。

「本当にいつでもいいから」

 いくら休みをもらえると言っても、さすがにそんなにすぐシフトの融通は利かないだろう。こちらの都合はどうとでも変更が出来るし、先延びになってもまあいいかと悠長に考えていたら、また想像の斜め上をいく答えが返ってきた。

「……わかりました。だったら来週空いてますか?」

「は?」

「都合悪いですか?」

「あ、いや、ううん。こっちは大丈夫だけど」

 少し思案している様子だったので、また今度ゆっくり考えてくれとそう言おうと思っていたのに。まさかこんなに早く即決されるとは思わなかった。正直どうしたらいいのか一瞬わからなくなり、思いきり声が上擦ってしまった。

「じゃあ、来週の土日空けますね」

 僕の想像はどれも覆されて、呆気に取られているうちに全部決まってしまった。迷いのないこの即決具合はなんなんだろうか。

「あ、実は、行く場所なんだけどな」

「それは当日で構いません」

「え、でも、その」

 こちらの勝手な用事に付き合わせて、せっかくの休みを空けてくれるというのに、なにも言わないままでは居心地が悪い。でもきっぱりと言い切った藤堂の言葉につい口をつぐんでしまう。なにかこちらの思惑に気づいているんだろうか。

 藤堂はいつも僕が口にする前に、大抵のことはお見通しなことが多い。どうしてそこまで聡いんだろうかと、驚かずにはいられないくらいだ。それともただ単に僕の行動があまりにも読みやすいから、ということなのだろうか。でも今回のことはまさか気持ちを先回りされることなんてないと思っていた。

「藤堂、底知れないなぁ」

 思わず通話が切れた電話をまじまじと見つめてしまった。でも本当に言わないままでいいのだろうか。まさか本当に気づいていたりするとか?

「……来週か、元々予定してたけど、二人分だし。新幹線と泊まる場所、早く決めないとまずいよな」

 とりあえず僕がいま悩んでも、答えが見えてこないことはよくわかった。仕方ないので現実問題の解決を図ろうと思う。

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