夏日09
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 静まり返っていた空間に響いた足音はそれほど大きなものではなかったけれど、僕の心臓を跳ね上げさせるには十分なものだった。慌てて目の前の藤堂を押し離し、僕はその音に耳を澄ませた。ゆっくりと近づいてきたそれは、想像した通り職員室の前で止まる。開かれたままの戸の向こう側に靴先が見え、たったそれだけでもうるさいほど心臓の鼓動は早くなる。

「あれ? 西岡先生?」

 職員室に入ってきた人物は一瞬、藤堂を見て驚いたように足を止めた。そして今度は戸に背を預けていた僕を見て目を丸くした。居心地悪そうにしている僕に首を傾げながら、彼は僕と藤堂を見比べる。

「お客さん?」

「え? あ、まあ」

「あ、そうだ。これ渡しておきますね」

 ぎこちなく頷く僕を特に訝しむこともなく、彼は思い出したように手元に持ったファイルに挟んでいたプリントを一枚僕に差し出す。

「詳細書類です」

「あ、ああ」

 じゃあ、と言って職員室の奥へ足を進める彼の背中を目で追いながら、僕は片手で藤堂を職員室の外へと追い出した。不満そうに口を尖らせていたけれど、あえてそれを見ないふりする。いまはまだ藤堂に気づいていないようだけれど、なにかの拍子に気づかれては困る。

「西岡先生」

「え?」

 そろりと足を忍ばせ職員室を出ようとしたところで、急に声をかけられて肩が跳ね上がった。その声にゆっくりと振り返れば、さすがに挙動不審な僕が怪しく映ったのだろう、彼は怪訝な表情を浮かべていた。

「当日よろしくお願いしますね。楽しみにしています」

「ああ、もちろん。こちらこそよろしく」

 手渡されたプリントを持ち上げ返事をすると、彼は満足げな笑みを浮かべた。

「じゃあ、北条先生お疲れ様」

「あ、お疲れ様です」

 廊下から伸びる手に急かされ、僕は後ずさりするように廊下へと出る。北条先生は少し不思議な顔をしていたけれど、それでも小さく頭を下げてこちらへ笑みを返してくれた。

「佐樹さん」

「わかってる、帰ろう」

 また急くように服の裾を引かれて、僕はふて腐れている藤堂のその手を握った。廊下で待たされていた藤堂はひと目で見てわかるほどにご機嫌斜めだった。ほんの数分のやりとりだというのに、まさかと思うがヤキモチを妬かれていたりするのだろうか。じっと瞳を見つめ返したら、ムッと目を細めた藤堂に腕を引かれた。

「わっ」

 僕の腕を引いた手の力は思いのほか強くて、バランスを崩した僕は藤堂の胸にトンとぶつかりそのまま収まってしまった。慌てて身体を起こそうとするものの、藤堂の腕がそれを阻み許してくれなかった。

「藤堂っ」

 小さな声で抗議をするが、それでも藤堂の手は緩まない。それどころか藤堂の唇が僕の頬に触れた。その感触に僕は息を飲んだ。

「……っ」

 突然のことに対応出来ず目を見開き立ち尽くしていると、頬に触れた唇がほんの一瞬自分の唇を掠めていった。頬に触れるよりも唇に触れたそれが熱い気がして、僕はその熱に身動き出来なくなってしまう。そしてそんな僕を見下ろし、藤堂はやけに嬉しそうに笑った。眩しいほどのその笑顔に、なにも言えず僕は藤堂のシャツを小さく握った。

「お前、ずるいよ」

 怒るべき場面なのに、藤堂の笑みはそれさえ払拭してしまう。容易く翻弄されてしまう自分が情けないと思うけれど、藤堂の笑顔を見るだけで心は満たされてしまうのだ。怒る気もすっかり失せた僕は、藤堂の手を引き静かな廊下を歩き始めた。
 沈み始めた夕陽の中、二人分の小さな足音が響く。そしてのんびりとした足取りで僕たちは校舎を抜けた。外へ出ると夏独特の夕暮れの熱気に包まれ、二人で夕陽の眩しさに目を細めた。

「佐樹さん」

 駅までの道、手を繋いだまましばらく黙々と歩いていたが、ふいに手にしたままだったプリントを藤堂にさらわれた。

「ん? なに?」

 そんな突然過ぎる行動の意味がわからなくて、僕は立ち止まり思わず首を傾げて藤堂を見上げてしまった。

「俺は最近、ますます欲深くなった気がします」

「え?」

 呟くような小さな声が弱々しくて、心がちくりと針を刺されたみたいに痛んだ。また藤堂を不安にさせることをしてしまったのだろうか。そう思って手を伸ばし、プリントを掴むその手を握った。

「もしかして、まだ気にしてる?」

 ほんの数秒だったが思考を巡らせて考えた。手の中にあるプリント、藤堂が思い悩むこと。思い浮かんだのは一つしかなくて、僕はまっすぐな視線を見つめ返した。

「気にしてないって言ったら嘘になります。ほんとは他人じゃなくて、佐樹さんから聞きたかった」

「……そう、だよな」

 あの時、そしていま、藤堂の機嫌を損ねていた原因はこれだったのか。たった一枚のプリントだけれど、それには意味があった。プリントを僕に手渡した北条先生は写真部の顧問だ。そしてプリントに書かれているのは、夏休みの特別活動に関するもの。渉さんのこと。
 言い訳ばかりを考えて、僕はまだちゃんと藤堂に向き合って伝えていなかった。

「ごめん、でも渉さんとは本当になにもないから。ちゃんと話さなくて悪かった」

「わかっています。それに言い出せないような空気を作っていたのは俺です」

 俯いた藤堂に差し出されたプリントを受け取ると、僕はそれを小さく折りたたんで鞄へとしまった。なんとなくこれがあると藤堂の気持ちが揺れたままになりそうだと思った。

「不安にさせて、ごめんな」

「謝らせたいわけじゃないんです。すみません、俺の我がままでしたね」

「そんなことは思ってない」

 それどころか藤堂が気持ちをぶつけてくれるたびに僕は優越を感じてしまう。藤堂の特別である自分が嬉しくて、小さなヤキモチさえも僕を喜ばせる。けれどそれをうまく伝えられなくて、いつも不安にさせてしまう。

「藤堂、僕はお前が好きだよ」

 こんなありきたりな言葉でしか表せないけれど、これが僕の精一杯の気持ちだ。この気持ちが僕のすべてで、それ以外見つからない。
 僕の中の藤堂は世界で明るく瞬く一等星だと思う。なによりも輝いていて、そこに確かに存在している。だからいつだって僕の想いは藤堂にまっすぐと向かう。それ以外目に入らないんじゃないかと思えるくらいに。

「うん、ありがとう佐樹さん」

 まっすぐに藤堂を見つめれば、僕の言葉を嬉しそうな顔で受け止めてくれた。
 髪を梳いて頬を撫でる藤堂の手が優しくて、僕はゆっくりと目を閉じる。そしてそれが合図であるかのように僕の唇に口づけが落とされた。

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