夏日12
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 のんびりとした食事を終え、二人でキッチンに立ち食器を片付けていると、ふいに藤堂の手が僕の手首を掴んだ。その感触に驚いて振り返れば、藤堂の視線がじっと僕の目を見つめる。その視線に戸惑いながら僕は小さく首を傾げた。

「明日、朝早くに帰らなくちゃいけないんですけど。傍にいてもいいですか?」

「……え?」

 ゆっくりと僕の手を持ち上げ指先に口づける藤堂の視線は、それることなく僕をまっすぐと見つめている。その眼差しに鼓動は急激に早まった。また僕の心はあっさりと見透かされてしまったようだ。まだ傍にいたいという我がままな想い。それをいとも容易く見破って、藤堂は僕の心を抱きしめてくれる。
 気恥ずかしくて俯きながら小さく頷いたら、額にやんわりと口づけされた。

「二人で一緒に寝るの久しぶりですね」

「うん、そうだな」

 思いがけず叶った願いにどうしても心は浮き立ってしまう。最後に藤堂が来てくれたのは五月の半ば頃だから三ヶ月ぶりくらいだろうか。姉の佳奈は店をやっていて、商品の仕入れで海外をあちこち回るので、一度飛び出すとなかなか帰らない。今回も思った以上に長かったな。

「あ、お風呂沸いてると思うから、先に入って来い」

「わかりました」

 食事の片付けが終わると藤堂を風呂へと送り出した。そのあいだにベッドのシーツを取り替えて、洗濯機に放り込む。寝室は母が時折掃除してくれていたので、散らかってはいないので大丈夫だろう。クローゼットにしまっていた枕を圧縮袋から取り出して、形を整えるとベッドにある枕と並べた。
 一緒に眠ったことは数えるほどしかないけれど、ドキドキもするしそれと共に安心もする。朝まで一緒にいられる、そう思ったら顔が緩んでにやにやとした笑みが止まらなくなってきた。手にしたものをぎゅっと抱きしめ、思わずそれに顔を埋めてしまう。

「あ、やば。しわになる」

 抱きしめたそれは藤堂の寝間着替わりのTシャツとスウェットだ。休みの日にきちりとした格好をするのはやはり気分が上がらないものだから、以前泊まっていった時に部屋着と一緒に買い揃えたものだ。
 藤堂が風呂に入っているあいだに着替えを置きに行こうと脱衣所の扉を開くと、水音が響くそこで低く鈍い音が聞こえた。鳴り止まない音を不思議に思いながらその音に近づくと、藤堂のデニムのポケットで携帯電話が震えていた。音は一向に止まないが、藤堂は風呂に入ったばかりだ。

「あ、止んだ」

 どうしようか考えあぐねていると携帯電話はやっと鳴り止んだ。しかしほっと息を吐いて脱衣所をあとにした僕は、再び携帯電話が震えだしたことに気がつかなかった。

「藤堂なんか飲む?」

 しばらくして風呂から上がってきた藤堂を振り返る。するとタオルで髪を拭きながら近づいてきた藤堂が、ソファに座っている僕の後ろに立った。後ろに立たれた理由がわからず顔を反らせて藤堂を見上げると、ふいに口先に唇が触れる。そして驚いて顔を赤くした僕を見て藤堂は満足げに笑い、僕が手にしていたマグカップをさらいそれに口をつけた。

「甘い」

 マグカップに入ったものを一口飲み、藤堂はぽつりと呟く。マグカップに入っていたのはホットココアだ。甘党の僕が飲むものだから普通のものより少し甘めになっている。

「珈琲でも淹れようか?」

「いえ、水もらっていいですか?」

「うん」

 マグカップを僕に返した藤堂は、キッチンでコップに水を入れて戻ってきた。なに気なく隣に座った藤堂の肩が微かに触れて少しドキリとする。そわそわとした気持ちを隠しながら水を飲んでいる藤堂の横顔を見つめれば、髪がまだ雫を含んでいることに気がついた。

「髪、乾かしてやろうか?」

「え?」

 驚いて振り返った藤堂が目を瞬かせる。そんな表情が可愛くて僕は思わず笑ってしまう。そして急いで洗面所にあるドライヤーを取りに行くと、ソファに座り直し僕は足元を指差した。

「ここ座って」

 浮かれた僕の視線に少し戸惑った様子を見せながらも、藤堂は指差した僕の足元に胡座をかいて座った。

「熱かったら言えよ」

 ドライヤーの風を当てながら髪を指で梳き乾かしていく。指通りのいい藤堂の髪は、水気がなくなってくるとさらさらとして触り心地がよかった。無防備な背中を見つめながら、僕は胸に広がる幸せを噛みしめる。

「あ、藤堂。携帯」

 一瞬ドライヤーの音で気づくのが遅れたが、ソファの上で震え鈍い音を響かせる携帯電話に気がついた。しかし藤堂は腕を伸ばして携帯電話を掴んだが、それをしばらく見つめたまま一向に出ようとはしなかった。それを不思議に思い髪を乾かす手を止めると、藤堂は携帯電話を開き終話ボタンを押して着信を断ち切ってしまった。

「出なくてよかったのか?」

「……えぇ、いいんです」

 僕の問いかけにぽつりと呟かれた、どこか影を落としたような声に胸がざわりとした。手にしたドライヤーの電源を切ると、それをソファに放り、僕は藤堂の横に座る。そして俯いた藤堂の顔を覗き見て、ぎゅっと胸が鷲掴まれたみたいに痛んだ。
 ぼんやり携帯電話を見つめ、ため息を吐き出した藤堂の表情には、疲れのようなものが滲んで見える。なにがあったのか、それを知りたい気持ちは強かったけれど、それ以上にいまの藤堂を見ているのが辛かった。またきっとなにかを心の中に詰め込んでしまっているに違いない。

「藤堂、こっち見て」

 しかしそっと腕を掴むけれど藤堂は振り向いてはくれない。

「藤堂」

 もう一度だけ手を握り名前を呼ぶと、ようやく我に返ったように顔を上げて藤堂は振り向いた。

「すみません」

 僕の視線にそう言って藤堂は至極綺麗な笑みを浮かべる。けれどそれがもどかしくて、ひどく胸が痛くて、僕は藤堂の上に跨がると両手で頬を包み顔を上向かせた。すると伏せられていた目がゆっくりと持ち上がり僕を見つめる。そして視線が重なると、瞳が不安げに揺れた。

「笑わなくていい。いまはなにも考えるな。全部忘れて、僕だけを見てろ」

 取り繕うような綺麗な笑みと、揺れるその瞳は心の内になにかを押し込め抱えている証拠。そんなものはすべて吐き出してしまえと思うけれど、多分きっと心が不器用な藤堂はそうすることがうまく出来ないのだろう。それがもどかしくて悔しくて堪らない。
 頬を包む指先に力を込め、僕は藤堂の唇に口づける。そして再び瞳を見つめると、今度は深く唇を重ねた。何度も口づけて舌を絡ませれば、背中に回された腕に強く抱きしめられる。

「んっ……」

 繰り返される口づけで次第に息が上がり、瞳が潤んで視界がぼやける。いつの間にか僕はしがみつくように藤堂の首に腕を回していた。

「佐樹さん、好きだよ」

「うん」

 離れては触れる、啄むような口づけを繰り返しながら、僕は藤堂の髪を指先で梳き、強く抱きしめた。

「佐樹さん」

「ん?」

 胸もとに擦り寄ってきた頭を優しく撫でると、僕を抱きしめる腕に力がこもる。

「佐樹さんが欲しいよ」

 呟きにも似た小さな藤堂の囁きに、僕の鼓動は痛いくらいに早まっていく。でも逃げ出す気にはならなかった。正直躊躇いは心の片隅にある。それでもいまは自分を求めてくれることがひどく嬉しかった。
 叶うなら藤堂の心に空いた隙間をすべて埋め尽くしてしまいたい。いまだけでもいいから、藤堂の心を全部抱きしめたい。

「……うん」

 小さく頷いて応えれば、至極嬉しそうに藤堂は微笑んだ。それが嬉しくて僕はまた強く藤堂を抱きしめた。

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