夏日23
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 餞別の代わりにもらっておくと唇に指先を当てて笑った峰岸は、軽い足取りで月島の傍へ寄っていった。先ほどの写真を見せてもらっているのか、その表情は実に楽しげだった。そんな様子をぼんやり見ながら、峰岸の言葉の意味を考える。

 餞別――それは多分きっと、俺と佐樹さんのあいだでゆらゆらと揺れていた心の針を、ゼロにするということなのだろう。しかしだからといっていきなり砕け散りに行くのはどうかと思う。
 本気ではない、面白半分なのは目に見てわかるのだが、峰岸の奔放さには相変わらずついていけない。

「渉さんさぁ、いま付き合ってるやついねぇの?」

「ん? いないね。っていうか、俺は特定の相手を作らない主義なんだよねぇ」

 ふいに顔を覗き込まれた月島は、興味津々な表情を隠そうともしない峰岸にちらりとだけ視線を向けた。

「へぇ、んじゃセフレだけ?」

 けれど明け透けな峰岸の発言に、さすがの月島もカメラに向けていた顔を上げて、自分を見つめている峰岸を見つめ返した。けれどしばらく瞬きを繰り返しながら峰岸を見つめていた月島は、急に吹き出すように笑い肩を揺らす。

「君、面白いね。そんなに俺に興味ある?」

「ある。センセに言うなって言われてたけど、俺は美人って結構好きなんだよな」

「ふぅん、正直者だね。でも俺はネコちゃんにしか興味ないんだよねぇ」

 満面の笑みで笑う峰岸に、月島は肩をすくめて笑い返す。しかし峰岸は少し考える素振りを見せてから、月島を再び見つめてゆるりと口の端を上げて笑った。

「そっちでもいいって言ったらどうする?」

 相手の瞳の奥を覗き込むような峰岸の視線に、月島はわずかに動きを止める。

「んー、そう返ってくるとは思わなかったなぁ」

 言葉で言葉をひっくり返すような峰岸の発言に、ほんの少し目を見開いた月島は、顔を俯けるとなにやら思案し始めた。けれどその時間は短く、峰岸に視線を戻した月島は小さく首を傾げる。

「まあ、確かに俺に興味はあるんだろうし、寝てみたいって気持ちもあるんだろうけど。一真は簡単にそっちには回らないよね? もしそうなるとしたら、もっと時間を長く共有して心を許した人間だけだよ。いま君が身体を許すのは、彼くらいでしょ」

 ふいにこちらへ視線を向けた月島がまっすぐに俺を指差す。そしてそんなまっすぐと伸びた指の先と俺の顔を見つめ、苦笑いを浮かべた峰岸は困ったように肩をすくめる。ついには月島が浮かべた不敵な笑みに、峰岸は観念したかのように片手を上げた。

「まあ確かに、その通りだけどな。駄目だぜ渉さん、そんなに簡単に答え合わせしたら。そこの彼が安心しちゃうだろ?」

「え?」

 今度は峰岸の視線に月島が驚いた表情を浮かべその先を振り返る。パソコン作業していた瀬名は峰岸が傍に寄ってきた時からじっと二人の様子を見ていた。振り返った拍子に視線でも合ったのか、慌てた様子で月島は視線を落とした。そしてしばらくして大きく息を吐くと、前髪をかき上げながら峰岸に向き直った。

「ほんとに君って面白い子だね。ここまで上手に嘘をつく子は初めて見たかも」

「嘘だってすぐわかったくせに?」

「俺はね、わかったけど。大抵の人は君のその嘘にころりと騙されるよ。うん、九割方は君の嘘に気づかない。んー、なんか俺と似てるね、君は」

「ふぅん、そっか。じゃあ、あんたも手が届かないものに手を伸ばして安心するんだ」

 なに気ない調子で紡いだ峰岸の言葉に月島は少し驚いた目をしたが、ゆっくりと瞬きをしてどこか寂しそうな目で笑った。

「そう、届かなければ届かないほど安心するんだよ。届かないってわかってるから、傷も浅くて済むからね」

 だから本気になるものほど手を触れずに遠くで、時折近くで見つめ続けてそれで満足しようとする。交わした言葉で少し峰岸と月島の心の距離が近くなったのが感じられた。それは恋とか愛とかそういった感情ではない。似た者同士の心の共有というやつだろう。

「あんたたちは心がこじれ過ぎだ」

 呆れた気持ちで二人の傍へ歩み寄った俺は、振り返った峰岸の背中を強く叩いた。俺も人のことは言えたものではないが、それでもこの二人の心はあまりにも寂しい色が揺らめいて見える。自分にも、そして相手にも与えてしまうかもしれない心の傷と痛みが怖くて、本当に本気になったものを手に出来ないのだ。臆病で優し過ぎて、脆くて不器用にもほどがある。

「安心しろ。いまの一番はお前とセンセだ」

「それがこじれてるって言ってるんだよ」

 子供みたいに無邪気な顔で笑みを返す峰岸に俺は呆れ顔でため息をつく。けれど当の本人はまったく意に介さない。それどころか呆れる俺をよそに月島と連絡先を交換し始めた。

「渉って呼んでもいいか? さんって言いにくい」

「うん、一真なら別に構わないよ」

 お互いがお互いの安全牌と認識し合ったのだろう。今日会ったばかりとは思えないほどに距離を感じさせない。峰岸のオープンさと月島の持つ雰囲気は、本人たちが言うようによく似ているのかもしれないと、肩をすくめながら再びため息をついてしまった。しかしそんな二人を見つめる視線には別の意味でため息が出る。

「そんなにのんびり構えてていいんですか」

「……いまここで、割り入ってもなんのメリットもない。逆に毛を逆なでするだけだ」

 ため息と俺の視線を感じたのか、瀬名は再びパソコンに視線を落とした。気にはなるけれど、月島の感情に踏み入る気はないということだろうか。正直、峰岸に似た性格なのであれば、月島という男は捉えどころのない性格の持ち主だろう。うまく人の感情を読み取り、それに合わせた人格を表に出す。本音はよほどのことがない限り表には出さない。

「ずっと見てるだけですか」

 けれど本気でどうにかしたいのであれば、いつまでも見ているだけではなにも変わらない。ああいうタイプの人間は懐かないのであれば、多少の無理をしてでも捕まえなければ、どうしたって手にすることは出来ないだろう。

「野生で生きてる手負いの生き物にいきなり手を出しても、牙を剥かれて噛み付かれるだけだ」

「確かに、下手をすれば一生懐く機会も得られなくなるでしょうね」

 瀬名の言う手負いという言葉に少し引っかかった。なにかしらの傷を抱えているということだろうが、相手が月島ではその傷さえ相手に見せることはせずに、なにごともない素振りで平気な顔をして笑うのだろう。

「厄介なのに惚れましたね」

「……それでも欲しいんだ。仕方がないだろ」

 余計な口は開かずに黙って見つめているようで、この瀬名という男は虎視眈々と相手の一瞬の隙も見逃さないつもりなのだ。
 そしていつか追い詰めて獲物を手に入れるのだろう。多分きっと月島もそれに気がついている。だからこそ一定の距離を保ってそれ以上近づかないのだ。お互いの気持ちは恐らくもっとずっと近くにあるはずなのに、背中合わせ――向き合うことがない。

 そう思うと、俺は幸せなのかもしれない。好きだと思った相手が自分だけを見つめ追いかけてくれる。精一杯の想いを伝えようとしてくれる。好きでいて愛していてくれる。当たり前に思ってしまいそうなほど、あの人は俺をまっすぐに好きでいてくれるのだ。

「人を好きになるのは簡単でも、愛されることは難しいですね」

「よく言うだろ。恋はするもんじゃない、落ちるもんだってな。落ちたあとが厄介なんだよ。理性ってもんがおかしくなる」

「ああ、確かに……人間、恋をすると馬鹿になるもんですね。でも景色は変わりますよ」

 誰かを愛するといままでの自分ではなくなる。その人のことが頭から離れなくなって、心が弱くなったりかき乱されたり、その心が自分のものではないような錯覚にさえ陥る。けれどその人のいる世界は色鮮やかで、どんなものにも代え難くなるのだ。
 それはたまらなく心地よくて、愛を貧欲に求めていた俺には盲目になるほど溺れている自覚がある。求めても求めても足りないくらいに貪り尽くしたい、そんな感情にさえ囚われることもあるほどだ。

 けれどそれが出来ないのはあの人の純白さだろう。俺自身の黒く歪んだ色に染まらないでいて欲しい。無垢なままの彼でいて欲しい。そんな想いが俺の心の内に根付いている感情さえも押し殺す。そしてそうするほどにあの人がいる場所は俺の聖域になる。

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