夏日28

 出発した車は渋滞にはまることなく順調に走っていた。けれど少し進んだ先にあるサービスエリアが近づくと、月島が急にそこに寄りたいとごねだす。寄ってどうするんだとため息をつく瀬名に月島は腹が減ったと口を引き結ぶ。ついでに地酒かワインと言えば、ますます深いため息が瀬名の口から吐き出される。

「いいっすか?」

 バックミラー越しに俺と佐樹さんに了承を求める瀬名に、俺は佐樹さんに向かって頷いた。すると少し運転席に身を乗り出した佐樹さんが「ついでに僕も買い物したい」と言い出す。一体なにを買うのだろうかと思わず首を傾げると、佐樹さんは俺を振り返り笑みを浮かべた。

「弁当とか買おうと思って。帰ってお前に晩ご飯を作らせるのは申し訳ないからな。瀬名くん買い物行くよな? 僕も一緒に行っていいか?」

 再び運転席のほうへ顔を向けた佐樹さんに、瀬名はちらりと視線を右に流しながらぎこちなく頷く。

「俺は構わないっすけど」

「えー、佐樹ちゃんが行くなら俺も行く」

 月島の言葉を予測していただろう瀬名は、ふて腐れたような顔で佐樹さんを振り返る月島に肩を落とした。そんな光景はいつもこの調子で瀬名が月島に振り回されているのだということを裏付ける。けれどそんな月島に対し、佐樹さんは躊躇うことなく顔を横に振った。

「駄目だ。渉さん目立つし、藤堂と待ってて」

「俺も留守番ですか?」

 思いがけない言葉につい声が大きくなってしまう。けれど振り返った佐樹さんは迷うことなく頷いた。

「もちろん、だってお前も目立つから。瀬名くんも目立ちそうだけど、僕が一人で行ったらお酒のことさっぱりわからないし」

 きっぱりと留守番を言い渡された俺と月島は、恐らく互いに微妙な表情を浮かべて佐樹さんを見たに違いない。けれどふっと吹き出すように佐樹さんは目を細めて笑った。留守番に若干の不服はあるが、その可愛らしい笑みに免じてここは彼の言い分を飲み込むことにした。

 パーキングエリアに車を停めると「早めに戻るから」と、佐樹さんは瀬名を連れ立って足早にサービスエリアの店内へ入っていった。残された俺たちのあいだにはしばらく沈黙が続く。
 これといって話すことも思いつかず、ぼんやり窓から外を眺めていたら「ねぇ」と小さな呼び声が聞こえる。その声に視線を前に向けると、目の前の助手席に座る月島が窓を開けて煙草に火をつけていた。

「順調そうだね、お付き合い」

「それは、どういう意味だ」

「えー、どういう意味もなにも言葉のまんまじゃない?」

 ふぅっと長く吐き出した月島の息と共に、細く伸びた紫煙が窓の外へ流れていく。それをなに気なく視線で追っていると、小さな笑い声が聞こえた。訝しく思いバックミラー越しに月島を見ると視線が合った。

「前よりもだいぶ佐樹ちゃんと距離が近くなったし、俺に対する警戒もあんまりしなくなってるし、どうしたのかなと思って」

 口元を緩めて笑う月島の視線には特別からかいの色は見られない。ただ単にそれに対して純粋な興味があるだけなのだろう。

「俺はあなたが嫌いでした」

 なので思っていることを繕わずに話してしまおうと思った。

「でした、過去形だね」

「いまは過去形だ。昔から俺はあなたが嫌いだった。疎ましく思ってましたよ」

「俺と君、昔からそんなに接点あったかな」

 煙草を口に咥え、不思議そうに首を傾げる月島に俺は小さく息をつき、再びバックミラーを見つめた。恐らくいま月島はRabbitでのことを思い返しているのだろう。確かにあそこでの俺と月島の接点はほとんどない。
 店で顔を合わせても挨拶するような間柄ではなかったし、言葉を交わしたのは佐樹さんが雪の日にあそこへ来た時くらいだ。要するにほとんどどころか、まったくもって接点はない。
 けれど俺にとってはそうではなかった。

「俺が佐樹さんと出会ったのは五年くらい前です。あの雨の日、いまにも崩れ落ちそうなほど小さく見えた。そんなあの人になぜか俺は惹かれたんです」

「え? 嘘、そんなに前?」

 よほど驚いたのだろう。月島はもたれていたシートから身体を起こし、俺を振り返った。振り返った視線を見つめ返すと、月島は大きく息を吐いて再び身体をシートに埋める。そして頭を整理しているのか、指先で眉間を揉むようにして小さく唸った。

「もしかして君、色んなとこに絡んでる? 佐樹ちゃん奥さん亡くなってから数日、様子がおかしかったんだけど。ふっとある日突然、少し落ち着いてさ。ああ、そういえばあの雪の晩のあとも、風邪引いて寝込んで入院して、それからまた少し変わったんだよ。事故のあとずっと俯きがちだったのに、前を向くようになったんだ。でもそれが君のおかげだったとして、なんで俺そんなに嫌われるかな?」

 わけがわからないといったようにため息をついた月島は、また煙草を咥え紫煙を吐き出す。しかし俺が月島のことを快く思っていなかった理由など、わからなくて当然のことだ。それは俺だけが知っていることで、佐樹さんも知らないことだからわかりようもない。

「事故の数日後、偶然に佐樹さんと再会した。これを逃したらもう会えないかもしれないと思って、その日に勢いで告白して……でも佐樹さんは気持ちがかなり不安定な時だったから、一緒にいたいと言ってくれたけど、その返事は保留にした。もしまた会えたらその時にって約束して、マンションの前で別れた」

 小雨が降る中、佐樹さんの手を握ってその手を離すのが惜しいと思うほどに、その時から好きでたまらなかった。それはなぜと問われてもいまだに答えは見つからないが、一目惚れというやつなのだろう。

 マンションにたどり着き、想う心に反して自分から離した手に、胸がひどく痛んだのをいまでも覚えている。そして彼が不安がらぬように笑みを浮かべて「じゃあ、また」と手を振った。マンションの中へ入り姿が見えなくなるまで見送って、ほのかに残る手のぬくもりを俺はきつく握り締めた。

「それから月に二度三度くらい。佐樹さんの最寄り駅へ寄るのが癖になった。でも顔を合わせる勇気はなくて、いつも遠くから姿を眺めてるだけだった。佐樹さんが仕事から帰ってくる時間はだいたい一緒で、でも時折その時間に帰ってこない時もあった。それとたまに知らない人と駅前で待ち合わせて立ち話をしていることもあった」

「ちょっと待った」

 ぽつぽつと語る俺の独白を月島が大きな声で止めた。煙草を慌てて灰皿で捻り消し、振り向いた月島の顔はあ然としていた。けれど俺はその反応に驚きはしなかった。なぜなら――。

「その知らない人ってもしかして、俺のこと?」

 それは月島が言う通りだからだ。
 普段の佐樹さんはあまり浮かない顔をしていて、背を丸めたみたいな後ろ姿でマンションに帰っていった。けれどたまにやってくる月島には親しげで楽しげな笑みを浮かべていた。
 それにあの雪の晩も、佐樹さんはなんの躊躇いもなく月島を抱きとめ、その手を握った。それがまるでごく自然で当たり前であるかのようにさえ見えた。そのやり取りを見た時、彼の心はもう他人のものになってしまったのかとさえ思った。

「待って、待った。君それは運が悪過ぎだよ。俺が佐樹ちゃんのところへ行くよりも何倍も、明良が佐樹ちゃんと一緒にいることのほうが多かった。時間が遅い時は大抵決まって明良のところにいたし、俺が佐樹ちゃんに会いにいくなんてほんと、月に一度や二度あるかないかだよ」

「それでも俺にとっては目の前のことがすべてだったんだ。だから写真展の日に会った時も愕然とした。なんでこの男はこんなにも俺の目の前に現れるんだろうって、そう思った」

「タイミングが悪過ぎだよほんとに、誤解し過ぎ」

 ため息交じりに呟いた月島は俺の顔をじっと見つめた。いまの俺は一体どんな顔をしているのだろう。はっとした様子で驚きに目を見開いた月島が、ひどく切なげな目をして俺を見つめている。そして困ったように笑って小さく首を傾げた。

「君、泣けない子なんだね。いますごくほんとは泣きたい気分じゃない?」

「わからない」

 自分が最後に泣いたのがいつだったかさえも思い出せない。けれどいまはひどく胸が苦しくてたまらない。溜め込んでいたものを吐き出したはずなのに、胸が痛くてたまらない。昔の感情に引きずられているのだろうか。

「佐樹ちゃんはこのこと知ってるの?」

「俺がこっそり彼に会いに行っていたのは知らない。けど五年前にあったことは知ってる。実際に思い出したのは付き合ってしばらくしてからだけど」

「そっかぁ、じゃあ俺なんかが敵うわけないよね。佐樹ちゃんは直感と心で君を選んだんだ。覚えていなくても、それでも一緒にいたいって思ったんだろうね。それにしてもそういう繋がりかぁ。で、なんで俺のことは過去形になったの?」

「今日一日だけど見ていてあなたのまっすぐさを感じた。いまだに佐樹さんと近い距離には苛ついたりするけど、それでも思っているほど嫌な奴じゃないと思えた」

 部員たちやほかの参加者たちに向ける月島の視線は、ひどく優しいものだった。それは作られた笑みや態度ではない、まっすぐとしたこの男の性根が見えた気がするほど煌めいていた。普段は口も悪いし態度も尊大だが、子供たちへ向ける優しげな眼差しは本物だと思った。

「そう、少しは君の中で格上げされたんだ俺。佐樹ちゃんとの距離は心と身体の距離が近くなったからかな?」

「それも、否定はしない。それにハッキリとあなたとはなにもないと答えてくれたから」

 気持ちを入れ替えるためかシートにもたれ背伸びをすると、月島はそれと共に大きく息を吐き出した。そして「完敗だな」と俯き気味に小さな声で呟き、小さく笑った。そうしてまたしばらく俺たちのあいだで沈黙が続いたが、静寂の中で二人ぼんやりとしているうちに佐樹さんと瀬名が戻ってきた。
 佐樹さんの「ただいま」の声に、俺たち二人は笑みを浮かべて「おかえり」と返した。