夏日30
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 予想外のことに目を丸くしている俺をよそに、脱衣所の扉は容赦なく閉められる。しかし鍵がついているわけでもないので、俺は「お邪魔します」と小さく呟き部屋に上がると脱衣所のドアノブに手をかけた。だがここでも思わぬことが起きる。中で思いきりドアノブを抑え抵抗された。

「佐樹さん?」

 わずかに動揺しながら扉の向こうにいる彼の名前を呼ぶが、一向にドアノブは動かない。また失敗しただろうかと旅館でのことを思い返し、扉の前でどうしたものかと考えていると、扉の向こうから微かな声が聞こえてきた。聞き取れなかったその声に「え?」と問い返すと、またしばらく沈黙が続く。

「ちょっと待ってろっ」

 沈黙に戸惑っていると急に大きな声が扉の向こうから聞こえてきた。そしてなにやらバタバタと向こうで音がしてそのあとガチャンという音が聞こえる。その音の元にすぐさま気がついた俺は、急いでドアノブに手をかけて扉を開くと脱衣所に足を踏み入れた。

 先ほどまでいただろう人はそこにはいなくもぬけの殻。脱ぎ捨てられた着衣が籠に放り込まれ、風呂場へ通じる戸が閉められていた。脱衣所とは違い風呂場は中から鍵がかけられる。そっと近くに寄って戸を叩くと水音が響いた。

「待ってろってば」

「もしかして自分でシてる?」

 水音にかき消されて聞こえないが恐らく自分の想像は間違いではないと思う。薄らと透けて見える戸の向こうに見える背中。それを見つめているとこちらまで気持ちが昂ぶりそうになってくる。

「ねぇ、佐樹さん。これって結構拷問。目の前でシてるの想像すると俺までヌケそうなんだけど」

「なっ、お前そんなキャラじゃないだろっ」

「キャラって……前に言いませんでしたっけ。俺も健康な男子なんで好きな人を目の前にしていやらしくなるなっていうほうが無理だって。ねぇ、俺も一緒に入りたい」

「少しだけ待ってろってば」

 返ってきた言葉にコツンと目の前の戸に額を預けて両手を付くと、水音の中から微かに漏れ聞こえてくる声がする。
 目を閉じればその姿を想像出来そうだったが、それはため息と共に吐き出して考えるのをやめた。このままだと本当に自分もコントロールが効きそうにない。

 戸に背を預けてずるずるとその場にしゃがみ込むと、心の中で素数を数えたりどうでもいい英単語を並べたりしながら頭を抱えた。我ながら情けない光景だと思うが、あれ以上想像して風呂に入った時に無様な状態になるよりはマシだと思った。

「藤堂? 寝てる?」

「え?」

 どのくらい過ぎたかわからないが、延々と頭の中をどうでもいいことで埋め尽くしていた俺は、背後で聞こえたカチッという音に気がつき顔を上げた。俯いていた俺が寝ていると勘違いしたらしい佐樹さんが再びそっと俺の名前を呼ぶ。

「もう入ってもいい?」

「あ、うん。だ、大丈夫だ」

 俺の問いかけに上擦った声で返事をしながら、佐樹さんは戸から少し離れた。そして微かに見える動きで背中を向けたのだろうということがわかった。
 けれど俺は急くことなく着ているものを脱ぎ、ついでに自分のものと佐樹さんの服も洗濯機に入れてスイッチを押してから戸を開いた。

 目の前にある白くて細い綺麗な身体を見つめながら後ろ手で戸を閉めると、浴室内にガチャンと戸の閉まる音が響き渡る。しばらく華奢な背中を見つめていたら、俺の無言の視線に耐え切れなくなったのか、慌てた様子で佐樹さんは湯船の中に飛び込んでしまった。

「逃げなくてもいいのに」

「そんなに見られたら恥ずかしいに決まってるだろっ」

「あとで髪、洗ってあげますね」

 頬を染めながら乳白色の湯の中に顔半分を沈める佐樹さんを横目に手早く身体を洗っていると、そっぽを向いていた視線がいつの間にかこちらを見ていた。
 いつもなら上半身がはだけただけでも顔を赤くして顔を背けるのに、珍しいものだと首を傾げて見つめ返せば、ほんの少し頬を染める。

「あ、泡でそんなに見えないから?」

「……」

「すぐに流しちゃいますよ。というよりもうちょっと慣れて欲しいな」

 図星だったのか、ふいと顔をそらされてしまった。でもそんな仕草や反応一つひとつが可愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。
 またじっと見つめていると次第に身体が背を向け始めてくる。ふっと吹き出すように笑ったら、すぐさま湯船のお湯が飛んできて「笑うな」と怒られてしまった。

 仕方なく視線をそらしシャワーで泡を洗い流すと、俺は背中を向けている彼に向かい歩を進め、そっと乳白色の湯の中に足を沈めた。そしてその気配を察してびくりと跳ね上げた彼の肩に両手を置き後ろからこめかみに口づける。

「佐樹さんこのままだと俺が入れないから左向いて」

「お前が入るなら」

「駄目、ちょっとくらいならのぼせないでしょ?」

 また逃げ出そうとする身体を背中から抱きとめて、俺は肩まで湯船に浸かった。目の前の白いうなじは少し赤い。
 湯はすぐにのぼせるような温度ではないし、この状況に恥ずかしくなっているのだろう。だがそうとわかっているのに、逃すまいと俺は両腕を目の前の身体に回し強く抱きしめていた。

「佐樹さん?」

 覗き込むように肩に顎を乗せて俯く顔を見つめるが、ちらりと視線が向くだけで振り向いてくれない。首筋と顎の辺りに口づけるとまたびくりと肩が跳ね上がる。

「そんなに固くならないで、俺はゆっくりこうやって佐樹さん抱きしめて風呂に入りたかっただけだから」

 緊張を隠せずにいる背中に小さく息をついて、俺は湯船の中から佐樹さんの手をすくい上げ、その指先に口づける。すると少し警戒を解いたのか、隙間の空いていた胸もとに背中が寄り添ってきた。
 なに気ない変化だけれど、それが嬉しくてすくい上げた手を握り締める。すると俯いていた顔がこちらをほんの少し振り返った。

「さっきはしたいって言ってたのに」

「え? ああ、まあ言いましたけど、ここじゃなくてちゃんとベッドのほうがいいでしょう?」

「う、あ、まあ」

 俺の一言であんなに緊張していたのかと思えば、思わずにやけて頬が緩む。可愛くてたまらなくて、頬に顔を寄せてぎゅっと強く抱きしめる。
 そうしたら今度は目を丸くしてまた俯いてしまった。ゆらゆら揺れる乳白色の湯に薄らと映る彼の顔を肩ごしに見下ろしていると、ふと胸もとに目がいってしまった。

 それは白い肌に残る赤黒い痕。だいぶ薄くなって消えかけているけれど、確かに刻んだ覚えがある初めての日の証し。そっと目に留まったその痕を指先で撫でると、驚いた顔をして佐樹さんが振り返る。

「もう消えちゃいそうですね」

 目を瞬かせる佐樹さんの頬に口づけて再びそこを撫でれば、ふっと視線が落とされ彼もまたそこをじっと見つめる。

「あ、ああ、うん、なんとなく寂しい」

「えっ?」

 ぽつりと返された言葉に思わずこちらが目を見張ってしまった。しかも同じように指先で自身の肌をなぞるその姿に、心拍数が少し早まった。湯でほんのり上気した頬と痕を見つめる切なげな眼差しに、思いきり胸を鷲掴まれる思いがした。

「これ見るたびに藤堂のこと思い出してたけど、消えると思うと寂しい。ほら、こことかもう消えて」

 振り返って膝立ちした彼が胸もとを指差すが、正直もうこちらはそれどころではなかった。振り返った彼を抱きしめて、目を見開いたその目を見つめたまま口づけた。慌ててジタバタともがく彼を抑えつけて深く口内の奥まで押し入ると、「んっ」と小さな喘ぎ声が漏れる。

 無自覚は恐ろしい――と改めて思い知らされる。あまりにも彼が無邪気過ぎてこちらがどす黒過ぎるのだということは重々承知しているけれど、それでもここまでされてさすがに黙って見ていられるほど俺の理性も強靭ではない。

「待って、藤堂っ」

 バシャバシャと激しく波打つ湯船の中で、逃げを打つ彼の身体が後ろへ後ろへと下がるが、最後に行き当たるのは浴室の壁だ。湯船の湯とは違いひんやりとした浴室の壁に背中が当たり無意識に佐樹さんの肩が跳ねる。

「ここでしないって言っただろ」

「言ったけど、それは前言撤回します」

 若干しどろもどろになっている彼の口を再び塞ぎ、両手首を掴んで壁に縫い止めると、俺はまた浅ましいほどに佐樹さんの口内を貪った。そして目尻を赤く染め薄らと目を開けてこちらを見ているその瞳に誘われるように、白い肌に赤い花びらを刻んだ。

 貪欲な獣が頭をもたげる。無防備にさらされた白い肌を切り裂く勢いで、首元に顔を埋めると、ゆっくりと潤んだ瞳が閉じられた。さらに乳白色の湯の中でするりとふくらはぎに寄せられた肌の感触に、思わず口元が緩んでしまう。そして請うように薄く開かれた唇に、再び誘われその隙間を埋め尽くした。

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