夏日33
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 寂しげな笑顔を見送った晩、電話越しに聞こえた第一声はどこか縋りつきそうなほどに弱々しさを感じた。すぐにいつもの声音に戻ったけれど、「帰りたくない」と呟いた泣きそうで不安そうな顔を思い出した。そんな時は離れた空間に胸が苦しくなる。

 傍に行って抱きしめてあげられたならどんなにいいだろうかと、後悔に似た感情が胸を占めていく。
 叶わない、無謀なことだとわかっていても、彼の手を離した自分を責め立てたくなってしまう。出来ることなら彼が言ったようにずっと傍にいたい。離れたくはない。けれど現実は優しくはない。

 そう、現実――その言葉が二人のあいだで高い壁のようにそびえ立ち、遮る。だからもうすぐだ、もうすぐだと心に言い聞かせながら、彼の声がゆったりと眠気を伝えるまで耳元から伝わってくる声に耳を澄まして優しく笑った。

 あれから数日、忙しい中でも藤堂はほんの少しの時間でも電話をくれた。嬉しいと素直に思う反面、大丈夫だろうかという不安も正直言えば心にあった。またなにかに追い詰められていたりしていないだろうかと、心配になる。

「あっ」

 突然聞こえた携帯電話の着信音に肩が跳ね上がった。そして慌てて鞄に入れておいたそれを手に取り、僕は周りを見回した。エンジン音だけが静かに響くここはバスの中だった。
 ちらちらと向けられる視線に、内心頭を下げながら僕は携帯電話をマナーモードにしてそれを開く。すると画面にはメールの着信を知らせる文字があった。誰のものかは予想出来ていたので、急いで中身を確認した。

 そこには「いま駅に着きました。改札の近くで待っています」の文字。それを確認して僕は腕時計に視線を落とす。現在の時刻は十三時十二分、実家の近くから出ているバス停から最寄り駅まで十五分ほどだ。
 まだ乗って五分くらいしか経っていないので、あと十分くらいはかかるだろう。少し待たせてしまうなと思いながら、僕は謝罪と駅に着く予定の時刻を打つとメールを送信した。

「はぁ、なんだかドキドキするな」

 実家へ来てもらうのは二度目だけれど、二泊三日ともなると一緒に時間を過ごす期間では最長だ。一日早く実家に帰っていた僕は、嬉しさと緊張がないまぜになって朝からまったく落ち着かなかった。
 そしてそんな気持ちを紛らわそうとあれこれ家の手伝いをしていたら、うっかりして乗るバスを一本逃してしまった。

 けれどバスに乗ったいまでさえ、早く会いたいなと心は急いている。ゆっくりと狭い道を走るバスがもどかしくて仕方がない。
 どうにも僕は日増しに欲張りになっている気がする。藤堂が傍にいてくれることが当たり前になり過ぎていて、離れているいまこの瞬間が物足りない。

 ずっとそわそわした気持ちを抱え窓の外を眺めながらバスに揺られていると、バスは次第に駅へ近づいていき、僕の胸の高鳴りもそれと共に早まっていた。だからこの時の僕は、ふわふわと浮かれた気分で大事なことを忘れていた。

「藤堂っ」

 駅前にバスが着くなり僕は慌ただしくバスを下車し、駅の改札に向かって走った。それほど大きくない駅であると共に、背が高く見目のいい藤堂はひと目でその姿を捉えることが出来た。駆け寄る僕に目を細めて笑う優しい表情に、なぜだか心からほっとした気分になる。
 藤堂の笑顔が見られるだけでこんなにも胸が温かくなる。緩む頬には気づいたけれど、にやけた顔のまま僕は大きく手を振った。

「遅くなってごめんな。ぼんやりしてたらバス出ちゃってて、近くの路線は十五分に一本くらいしかバス通ってなくて、それも乗り損ねそうになって」

「大丈夫ですよ、そんなに待ってないですから」

 慌てて早口になる僕に藤堂はほんの少し吹き出すように笑うけれど、緩んだ頬はさらにふやけたようになってしまう。

「あ、もうすぐで佳奈姉が買い物から帰ってくるらしいから、家まで車、乗せてってくれるって、少し待ってもらっていいか?」

「はい」

 いつもよりも柔らかな表情でこちらを見つめる視線は、緩みきっている僕の顔に気づいてのことだろう。それが気恥ずかしくて口を引き結んだら、それを見た藤堂は小さく笑って頷いた。
 そして優しい光を含んだ目をして僕の頬を手のひらで包むようにして撫でる。くすぐったい感触に肩をすくめれば、わざとらしく顎の下を指先で撫でられて少しだけ肩が跳ね上がってしまった。まるで猫をあやすみたいな藤堂の仕草に、心臓が忙しなく鳴る。

「藤堂、くすぐったい」

「すみません」

「って思ってないだろ」

 ちっともすまないと思っていなさそうな顔に目を細めれば、至極楽しげな笑顔を浮かべて髪を梳き撫でられた。その指先にますます鼓動が早くなるのを、気取られぬように俯いてみるが、その手は離れていかなくて顔がじわじわ熱くなってくる。それは夏の熱気のせいとは誤魔化せないくらいに火照っていた。

「恥ずかしいからもう触るな」

 触れられた場所から指先の熱が伝わるようで、僕はぎゅっと目をつむり大きく下を向いた。胸ではなく耳元で鳴っているのではないかと思うほどに、心臓はうるさいくらいに脈を打っている。
 そっと手の甲で藤堂の手を払うと、「可愛い」と藤堂はぽつりと呟き目を細めた。その眼差しが恥ずかしいのだと文句を言いたいのに、言葉が思うように出てこない。

 そんな僕を見透かしているだろう藤堂からの視線を感じながら、着ているTシャツの裾を強く掴んだその時、ふいに甲高いクラクションの音が短く二度響いた。

「あ、お姉さん着いたみたいですね」

 響いた音に弾かれるように顔を上げた僕とは裏腹に、落ち着いた様子でふっと視線を流した藤堂は小さくその先に向かって会釈をした。
 慌てて後ろを振り返れば、車の運転席から顔を覗かせる佳奈姉がいた。振り向いた僕と目が合うと親指を立て後部座席を指差し、無言で早くとその仕草と視線で急かしてくる。

 駅前はバスやタクシーが出入りするので広めのスペースが取られてはいるが、あまり自家用車を長居させるのは通行の妨げになる。そっと僕の肩に手を置いた藤堂に促され、少し足早に二人で車へと向かった。

「優哉くん久しぶりっ、相変わらずのイケメンっぷりね」

 僕らが車に乗ると、開口一番に佳奈姉はそう言って満面の笑みを浮かべた。それに少し戸惑いながらも藤堂は「お久しぶりです」と小さく笑った。

「じゃあ、ちゃっちゃと帰るわよ」

 控えめながらも微笑んだ藤堂の表情に満足いったのか、佳奈姉の運転する車は軽快に流れる車内の音楽のように勢いよく発進した。その滑り出しに、そういえばこの姉の運転はいつも心臓をひやひやさせられるのだったと肩が落ちる。

 慣れきっている道なので本人はまったく気づいていないようだが、久しぶりに乗ると乗せられたほうは身の縮む思いをする。冷や汗が出そうなそんな心中複雑な僕をよそに、あまり道幅の広くない道路を車は勢い落ちることなく実家へと向け走った。

「そういえばお母さんから連絡あって、佐樹と入れ違いで詩織姉さんたちがうちに着いたらしいわよ」

「あ、そうなのか。バスに乗ってる時に保さんの車とすれ違ったのかな」

 ちらりとバックミラーから視線を投げられて、僕は首を傾げた。バスに乗っている時は藤堂のことで頭がいっぱいになっていて、長女夫婦のことなど頭からすっかり抜け落ちていた。夏休みにしか実家に帰省せず、たまに用事がある時くらいしか顔を合わせないので、年に数回ほどしか会えないというのに、自分のことながらなかなか薄情な弟だ。

「もうちょっと顔合わせてあげな。姉さんは保さんの次にあんたが好きなんだから」

「向こうが約束より保さん優先するから会う回数減るんだよ。僕のせいじゃない」

 詩織姉の住んでいる場所は実家よりだいぶ遠く、丁度僕の家辺りが中間地点になる。そのため母の頼まれごとで会う約束をするのだが、なによりも旦那さんである保さん優先な姉は、彼の予定が変わり一緒にいられるとわかった途端に、先約である僕との予定を軽くすっ飛ばしてしまうのだ。
 何度とがめても一向に改めてくれる気配がないので、もうそれはすでに諦めの境地だった。

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