夏日36
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 優しいぬくもりにこらえていたものが溢れ出した。姉の前で泣くのは卑怯だと思ってずっと我慢して、痛んでヒリヒリとしていた喉から嗚咽が漏れる。いつの間にかしゃくり上げるように泣き出した僕を、藤堂はただ黙って抱きしめてくれた。
 家族を傷つけたくなかった。それはきっと心にあったかもしれないけれど、言葉にしてもらったことで狡い自分が救われた気分になった。

「誤魔化そうとしたのはよくないけど、はっきりと言い切ったあんたは偉いと思うわ。あんたは軽々しく物事を言葉にしないって家族なら誰しもわかってることだし、ちゃんと本気は伝わったわよ。それに、あんたがそうやって泣くの、初めて見たもの」

 ずっと僕らのやり取りを黙って見ていた佳奈姉の声はひどく優しかった。そして空になったビール缶をゴミ箱に放り入れると、佳奈姉もまた静かにリビングを出て行く。

「優哉くん、おばさんの我がまま聞いてくれてありがとう。さっちゃんを泣かせてしまってごめんなさいね」

 再び静まり返った空間に微かに震えた小さな声が響いた。そしてそれと共に細いけれども力強い腕が僕と藤堂を抱きしめる。

「でもさっちゃんがこうして自分の感情を家族にぶつけるのは初めてなの。いつも聞き分けのいい優しい子だったの。だから嘘をついて後悔して欲しくなかった。優哉くん、さっちゃんを好きになってくれてありがとう」

 突然藤堂のことを切り出したあの瞬間は、一体なぜそんなことを言い出すのだろうと思った。けれど母は母なりに僕たちのことを考えていたのだ。時間をおいて考えてみれば、あのまま誤魔化して、下手に仲よくなったあとに真実を知らされていたら、お互いに傷つくのは目に見えていた。黙っていることで曖昧に誤魔化し続けて傷つく藤堂。僕の友達だと信じていたのに裏切られる姉たち。
 それを思うと胸が引き裂かれるほどに痛む。それにすぐに気づけなかった自分が本当に嫌になる。けれどそれでもこの二人はそんな僕を優しく抱きしめていてくれる。

 夕飯時、詩織姉は部屋に引きこもって出てこようとはしなかった。けれどずっと傍にいた保さんが、いまはもう落ち着いていると言うので、しばらくそっとしておこうと母や佳奈姉に言われた。食事は詩織姉と一緒に食べるからと、二人分を保さんが部屋に持って行くことになり、そんな姿を見つめる僕の視線は多分きっと不安が浮かんでいたのだろう。保さんは去り際「明日の朝はみんなで食べよう」そう言って笑ってくれた。

「そういえば今日は花火が上がるのよ。十九時からだからご飯終わってちょうどいいかもしれないわね」

「そうなんですか?」

 夕飯作りの手伝いをしていた藤堂が母の言葉に反応を示す。僕はと言えば、詩織姉のことで頭がいっぱいになっていて、花火のことなど頭からすっかり抜け落ちていた。けれどいまは十八時少し前で、のんびり食事をして片付けをしても最初から花火は見られるだろう。

「ちょうど庭や二階の窓からも見られるわよ。都会みたいに大規模なものではないけど、綺麗よ。花火が終わったらお風呂に入れるようにしておいてあげるわね」

 母の言葉にふっと微笑んだ藤堂の表情を見て、いつまでもくよくよしていても始まらないと思い直す。詩織姉はもう落ち着いていると保さんは言っていたのだから、明日の朝にはいつも通りに挨拶をしよう。藤堂に戸惑ったりするかもしれないけれど、僕があいだに入ってあげればいいだけのことだ。
 藤堂をここに連れてきたのは重苦しい話をするためでも、悲しませるためでもない。彼を笑顔にしてあげたいからだ。彼が嫌いだと言っていた夏に、少しでも多く思い出を残してあげるために一緒に来た。

「それにしても優哉くんが未成年だったのは残念。一緒に酒盛りしてもらおうと思ってたのになぁ」

「あっ、もしかして昨日ビール買い込んでたの、そのためか?」

 先ほどからダイニングテーブルに上半身預けてキッチンを見ていた佳奈姉を振り返ると、口を尖らせて何本目かも既にわからない缶ビールのプルタブを開けた。

「でも前に一緒に飲んだ時は強かったよねぇ」

「佳奈姉っ、駄目だからな。僕の目の前では成人するまで絶対飲ませないから」

「あんたが飲めたらまだよかったのにね」

 ふっと重たいため息を吐かれて、なぜだかこちらが悪いことをした気分にさせられる。なぜか家族の中で僕だけが下戸なのだ。母は強くはないが父と一緒に晩酌しているところを何度か見かけたことがある。詩織姉もそこそこ飲めるし、保さんも強いほうだ。

「僕の見てない隙に飲ませるなよ」

「もう、口うるさいなぁ。わかってるわよ」

 以前の飲酒は僕の注意不足だったが、今回はそうはいかない。飲酒自体は恐らく藤堂は何度も経験があるのだろうと思う。中学生の頃から夜遊びしていたわけだし、お酒を扱っている店に出入りしていたこともある。けれどそれは僕の目の届かない場所での話、いまそれをどうこう言うつもりは一切ない。しかしいまは目の前で起ころうとすることを見逃すわけにはいかないのだ。

「藤堂も駄目だからな」

「はい、わかってます」

 ふて腐れた佳奈姉にため息を吐きつつ藤堂に向き直れば、なぜか嬉しそうに小さく笑われ、その隣で母も肩を揺らして笑っていた。なぜ笑っているのかがわからず眉をひそめたら、二人はますます笑みを深くした。
 なんとなく疎外感を受けてムッと口を引き結んだら、それに気がついた藤堂がふっと目を細めて微笑んだ。その瞬間、情けないが引き結んだはずの唇が情けなく歪んでしまう。そんな優しい目で微笑まれては怒るに怒れない。それにこんな小さなことで母にまでヤキモチを妬いている自分が恥ずかしくなってしまう。

「ほら、佳奈。テーブルの上を片付けて頂戴」

「はぁい」

 出来上がった料理を運んでくる母に、佳奈姉は渋々といった様子で立ち上がり空き缶をまとめてゴミ箱に放り込む。そして布巾でテーブルの上を拭き終わると、食欲をそそる匂いが鼻先を掠めていった。
 今日の夕飯は想像通りだった。デミグラスソースのかかったハンバーグに、チーズたっぷりのマカロニグラタン。そして焼きたてのライ麦パン。どれも昔から僕の好きなメニューだ。これに自家製のりんごジュースが加わり、いつもの帰省初日メニューになる。毎年食べているけれど、それでも笑みが浮かんでしまうほどに母の料理は美味しい。

「優哉くんは手際がすごくいいし、なんでも知ってるから今日はお母さん楽ちんだったわ」

 食卓に四人座るとそう言って母は至極嬉しそうに笑った。そしてそんな笑顔に藤堂は少し気恥ずかしそうにはにかむ。穏やかな二人の表情を見ていると、胸が熱くなるほどの幸せを感じた。藤堂が笑って、家族も一緒に笑ってくれる。それがなによりも嬉しかった。
 明日――ここで詩織姉も一緒に笑ってくれたらいいなと思いながら、僕は「いただきます」と両手を合わせた。

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