疑惑04
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 光の中へ歩いて行く渉さんの背中はなんだか頼もしく見えた。いままで仕事をしているところなんて見たことがなかったから、普段とは違う彼の姿はすごく新鮮だ。でもなんだか眩しく見えてしまうほど、遠くに行ってしまった感じもある。渉さんの世界は僕のいる平凡な世界とはやはり違うのだなと実感した。

「佐樹さんの前だとまるで借りてきた猫みたいだね」

「え?」

 ずっとスタジオの入り口付近にいた戸塚さんのもとへ戻ると、開口一番に「驚いた」と言われ、至極楽しそうに笑われた。そして借りてきた猫という言葉に僕は大きく首を傾げてしまう。

「月島くんがあんなに素直で、幸せそうに笑ってるところ見たことないよ」

「え? そうなんですか」

「うん、普段はものすごく愛想笑いに近いかな。あんまり心の内を見せないんだよね。結構仕事中は眉間にしわ寄ってることも多いよ。まあ、人物を撮るのはあまり好きではないみたいだから、余計かもしれないけど。それがわかってて仕事を入れちゃう僕は本当にひどい奴だよね」

 戸塚さんの視線の先を見つめるとそこには仕事に戻った渉さんの姿があった。確かに前を向く横顔には先ほどまでの柔らかな雰囲気も笑みもない。どちらかと言えば少し険しい顔だけれど、まっすぐと仕事に向き合っているのはよくわかる。

「渉さんは本当にできないことはできないと言うだろうから、いま仕事をしてるってことは、納得してやってるんだと思いますよ。慣れないことでプレッシャーとかが多いかもしれないけど」

「そうだね。月島くんはいつでもストイックな姿勢を崩さない。だから僕らがそれに甘えちゃってるんだよね」

 少し困ったように笑いながら肩をすくめた戸塚さんの心情には、できれば無理をさせたくはないという気持ちがあるのだろう。けれどそれが彼の仕事なのだ。
 私的な感情だけでそれを覆すことはできない。特に渉さんは全国的にも名前が売れている写真家だ。その名前だけで売り上げが左右される仕事はきっと僕が想像するよりもずっとたくさんあるに違いない。

「準備オッケイです! モデルさん入ります」

 しばらく戸塚さんと並びながらじっと渉さんの仕事ぶりを見ていると、ふいに大きな声がスタジオ中に響いた。そして十数人はいるスタジオの視線が一斉に入り口のほうへと向けられる。

 そこには色々な感情が溢れているように見えた。でも一番強い感情は期待だろうか。そしてそんな期待はスタジオに入ってきた二人を目に留めて大きく膨らみ、そして弾けた。スタジオ中にざわめきが広がる。
 けれどそのざわめきは室内に響いた靴音と共にふいに途切れた。入り口近くで二人が入ってくるのを見ていた僕も、瞬きするのを忘れるくらいじっと見つめてしまった。

「今回入っていただくことになった優哉くんと一真くんです」

 後ろから一緒に入ってきた宮原くんの声に一瞬にしてみんなが我に返る。軽く頭を下げた藤堂と峰岸の姿にまわりから拍手が起こり、再び辺りはざわめきに包まれた。
 緊張のためか少し居心地の悪そうな藤堂と、どこかもう開き直っていそうな雰囲気の峰岸。対照的な二人ではあるけれど、とにかく二人の姿は目を引いた。もともとが街中にただ立っているだけでも人目を引くというのに、プロの手でさらに磨き上げられて眩しいほどだ。

 峰岸は普段から華やかさがあるが、いまは藤堂も峰岸とは違った華やかさを身にまとっていた。いつもの眼鏡はなく、素顔がよく見える。
 そして私服の時でもそれほど大きく手を加えていない髪は分け目を変え、サイドに流し頬に緩くかかっていた。ダークブルーのスーツと相まって、それはいつも見ている藤堂よりぐっと大人っぽい仕上がりだ。

 一度目に留めたらもう視線が離せず、やたら早くなった胸の動悸がおさまらない。それなのにふっと視線が流れてそれがこちらを振り返った。
 目が合った瞬間、大きく心臓が跳ね上がり、止まってしまったかと思うほど息を飲んだ。そしてどうしたらいいかわからなくなって、思わず俯いてしまった。

「大丈夫?」

「え! あ、はい」

 俯いたまま気を紛らわすために両手を握りしめていたら、ふいに横から戸塚さんに顔を覗きこまれた。突然目の前に現れた顔に驚いて僕は大げさなほど顔を跳ね上げる。
 その顔は先ほどから熱いくらいで、紅潮しているのが自分でもわかった。挙動不審な僕を見る戸塚さんは、視線を和らげて優しく微笑んでいる。

「優哉くん格好いいよね。一真くんはもとから雰囲気も見た目も華やかで目につくけど、優哉くんはちょっと影がある感じが大人っぽくて色気がある。二人が並ぶと光と影って感じだね」

「は、はい」

 変な緊張で声が上擦る。けれどそんな僕に対して戸塚さんはまったく怪訝な顔はせずに先ほどと同じように微笑んでいた。

「ああ、ごめんね。色々と事前情報は入ってるんだよね。佐樹さんと優哉くんのこととか、月島くんの気持ちとか、あと今日はいないけど瀬名くんのこととかね」

「え?」

 よほど僕が不思議そうな顔をしていたのだろう。ほんの少し困ったような顔をして戸塚さんは微笑みのネタばらしをする。それを聞いて僕は一瞬目を瞬かせ固まってしまった。そしてそんなにここはオープンな世界なのだろうかと大いに混乱する。
 しかしあたふたとまわりを見渡したら、戸塚さんはなんだか微笑ましそうに僕を見た。

「あ、大丈夫だよ。みんな知ってるとかいうわけじゃなくて、僕が知ってるだけだから」

「じょ、情報源は?」

「主に月島くん、あとはわかりやすく態度に出てる瀬名くんかな? 今日は別な仕事が入ってこられなくなったみたいで、このあいだ会った時にすごく不服そうな顔をしてたよ。でもまあ、その気持ちというか心配はわかる気がしたよ。月島くんの佐樹さんに対するあんな顔を見たら嫉妬したくなっちゃうよね」

「そう、なんですか」

 肩をすくめた戸塚さんに僕はどう反応したらいいのかわからなくて、曖昧な相槌だけを返してしまった。渉さんの気持ちは本当にまだ僕に向いたままなのだろうか。誰も気づいていないだけではないだろうかと思ってしまう。
 確かに渉さんは僕に対していつも優しい笑みを見せるけれど、優しいだけが愛情ではない。藤堂だっていまでは喜怒哀楽をはっきりと見せてくれるようになった。我がままだって言うし、意地悪いことだってあるし、拗ねたり怒ったりもする。

 好きっていうのはきっと優しいばかりじゃない。どちらかと言えば、渉さんが瀬名くんに見せる顔のほうがよほど感情があるように思える。自分の内面を相手に見せるのは、それだけお互いの距離が近いからだ。
 遠慮があるうちはどうしたって自分を装ってしまう。確かに渉さんのわかりやすい態度は僕への好意を隠していない。だけど僕に見せるのは優しい一面だけ。きっと弱さは見せてくれない気がする。

「撮影開始します!」

 スタジオの中に大きな声が響く。その声に僕は少し俯き気味になっていた顔を上げ、カメラを手にして藤堂と峰岸の前に立った渉さんを見つめた。

 好き、愛してる――彼の中にある僕への想いを確かに感じる。だけどなぜだか僕はそれに納得はしていない。もし瀬名くんに会わなければ、こんなことは思わなかっただろう。
 甘い恋と苦い恋の違いなんて考えることもなかったはずだ。そしてそのどちらも恋愛には必要なんだってことは思いもしなかった。このままでは駄目だ。このまま僕だけを想い続けるのは渉さんのためにならない、そう思えてため息がこぼれてしまった。

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