疑惑08
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 言葉では推し量ることのできない感情。渉さんの中にある瀬名くんへの感情は、まだ名前がない。好き、でも嫌いでも、愛してるでもないのだろう。そしてそれは色んな可能性を秘めている。
 好転するか暗転するか、いまはまだそれさえも見えない。それでも戸塚さんはいつかその日は来るだろうと言った。間近で見ている人が言うのだから、きっとそれに間違いはないはずだ。

 僕への想いなど早く忘れて欲しいと思ったけれど、いまはまだ必要なのだというならば、その気持ちはそのままにしておこう。可能性があるのなら、いつか渉さんが瀬名くんにありのままでいられるようになればいい。僕の独りよがりな望みだけれど、それが叶ったらいいなと思う。

「佐樹ちゃん、今日は遅くまでありがとう」

「こちらこそ現場を見せてくれてありがとう」

「またいつでも」

 食事を終えて昼前に戸塚さんが迎えに来てくれた駅前に着くと、辺りはもうすっかり暗くなり街灯に照らされていた。時間もだいぶ遅いためか人も少なく、昼と夜の違いを感じる。
 なんだか一日がすごく充実していたのに、あっという間な気もして不思議な感覚だ。けれど目の前で笑みを浮かべている渉さんから、最後に藤堂や峰岸と三人で撮った写真を手渡されると、今日が夢や幻ではないのを実感する。

「気をつけて帰ってね」

「ありがとう」

 ふわりといつものように僕の頬に口づけた渉さんを見送れば、彼を乗せた車は再び撮影スタジオへと向かっていった。戸塚さんの話ではまだひと仕事残っているらしい。瀬名くんも自分の仕事ではないのに手伝って帰るそうだ。なんだか甲斐甲斐しくて、ますます応援したくなる。

「佐樹さん」

「ん?」

 走り去った車が見えなくなると、ふいに名前を呼ばれる。けれどその声に振り向こうとしたら、後ろから伸びてきた腕に強く抱き寄せられ振り向くことができなかった。突然のことに驚いている僕の身体を、藤堂の腕が強く抱きしめる。

「俺の前であまり気安くほかの男に触らせないで」

「あ、えっと、悪い」

 耳元に囁かれた言葉で僕の頬が熱くなる。小さな独占欲が身体を締めつけるけれど、それがなんだかくすぐったくて嬉しくて、胸が熱くてたまらなくなった。身じろぎすることなく藤堂を受け止めていると、うなじに優しく口づけられてしまう。

「今日は佐樹さんずっとあの人のことばかり考えていたでしょ」

「え? あ、いや、そうでもないぞ」

「嘘ばっかり。まあ、早々にくっついてもらったほうが俺は嬉しいけど」

「んー、まだ時間はかかりそうだけど。こればかりはまわりが急かしても仕方ないしな」

 芽吹くまでは焦って水をやり過ぎても、日に当て過ぎても駄目だ。いまはまだ二人を見守るしかできない。でも渉さん以外と気難しそうだから、瀬名くんには頑張ってもらいたいな。

「おいこら、夜で暗いからっていちゃついてんな。俺の存在忘れてるだろ」

「え! あ、そんなことない」

 大きなため息と共に聞こえてきた声に肩が跳ね上がった。慌てて後ろに立っていた峰岸を振り返ったら、目を細めて呆れたような表情を浮かべている。
 そんな顔を見てしまうと返す言葉も思いつかなくて、へらりと曖昧な笑みを浮かべてしまった。すると誤魔化すような僕の反応に、峰岸は大げさなほど大きく肩をすくめる。

「ったく、あいつらなら心配しなくてもそのうちくっつくと思うぜ」

「え? そうか?」

「あいつ、ちゃっかりとテーブルの下で渉の手、握ってた」

「えぇ? ほんとか?」

「俺、すげぇ牽制されてたわ」

 そうか峰岸は渉さんの隣だったから、僕たちが見えない角度の二人が見えていたのか。なんだかんだと渉さんと仲がいいし、瀬名くんから見たら目の上のたんこぶかもしれない。
 それで威嚇しちゃうなんて瀬名くんも案外気が短そうだ。でも触れられるのが嫌いなのに黙って受け入れてるのは、渉さん的譲歩なのか、単なる受け流しなのか。
 しかしどちらにせよ、時間の問題という気がしてきた。

「よし、もう時間もだいぶ遅いし、そろそろ帰るか」

「おう、それはいいけど。そこの子泣きじじいはいいのか?」

「あ、藤堂?」

 峰岸のからかうような声にちらりと横顔を見るが、しっかりと僕を抱きかかえ藤堂は頬に顔を寄せて甘えてくる。なだめすかすように腕を叩いたら、さらにぎゅっと力がこもった。すがりつくような力に少し驚いてしまう。急にどうしたのだろうか。

「これから佐樹さんの家に行きたいんですけど、駄目ですか」

「え、これから? うーん、さすがに時間も遅いし明日は平日だから駄目だ」

 腕を持ち上げて時計を確認すれば、時刻はすでに二十一時半を回っていた。これから電車で移動して家に着く頃には二十二時半くらいになる。終電まで一時間くらいは一緒にいられるかもしれないが明日は平日だ、あまり遅い時間には帰したくない。

「じゃあ、家まで送りたいです」

「ここからだと藤堂の最寄り駅が遠回りになるだろ。今日はまっすぐ帰ったほうがいい」

 駄々をこねるようにしがみついて離れない藤堂の腕をあやすみたいに叩くが、腕の力はなかなか緩みそうにない。
 けれど遠回りして帰ると乗り換えの関係で方向が完全に逆になってしまい、結局どちらにしても帰りが遅くなってしまう。心を鬼にして抱きしめる腕をなんとか解くと、僕は後ろに立つ藤堂を振り返った。

「そんな顔しても駄目だ」

 拗ねてふて腐れた顔をする藤堂は子供っぽくて可愛い。つい甘やかしてしまいたくなるけれど、ここで許してしまうとのちのちよくない気がする。甘やかす癖がついてしまいそうだ。
 それでなくともたまにこぼす藤堂の我がままには弱いというのに、これ以上になってしまったらなんでも受け入れたくなってしまう。

「今日は帰ろう」

 少し語気を強めてじっと藤堂の目を見つめると、僕の気持ちを察したのか、藤堂はふっと息を吐いて小さく頷いた。

「……わかりました。じゃあ、また学校で」

「うん、また明日な」

「そんじゃ解散しますか」

 ようやく話が落ち着くと、僕たちの様子をじっと見ていた峰岸が大きく伸びをして駅の改札に向かって歩き出した。そしてその背を追いかけて改札を抜ければ、僕たちはそれぞれの帰路につく。
 向かうホームは三人とも別々なので、僕とは逆方向の電車に乗る藤堂と、別沿線に乗る峰岸が階段を上っていくのを見届けてから僕もゆっくりと階段を上った。

 ホームにたどり着く頃にちょうど向かい側のホームへ電車が滑り込んでくる。その電車に藤堂が乗り込むのが見えて、視線を送ったら片手を上げて微笑んでくれた。その笑みに手を振り返すと、藤堂の乗った電車は発車音を響かせゆっくりとまた走り出していった。

「あと十分か」

 電光掲示板を見上げると僕の乗る電車は先発が出たばかりのようで、あいだに特急電車が通過するために十分ほど時間が空いていた。まだしばらくあるのを確認して僕は枠線の中に並んだ。そして帰り着く時間を調べようと携帯電話を開いたら、ちょうどよく手にした携帯電話が震える。

 それが藤堂のものだとすぐに気づいたので、すぐさま僕は届いたメールを確認した。帰ったら電話をしてもいいかという文面に、着いたら連絡すると返信をして僕は頬を緩める。

「おっと、人が増えたな」

 先ほどまでは電車が出たばかりで人は並んでいなかったが、反対側に乗り換えの電車が止まり一気にホームに人が増えた。
 後ろに並ぶ人も増えて黄色い線の内側ギリギリまで僕は前に進む。そして途中だった到着時刻を調べるべく携帯電話に視線を落とした。

 ここから最寄りの駅まで一回の乗り換えをして五十分ほど、着く時間を連絡しておくのがいいかと予定時刻を藤堂にメールする。そして何度かメールのやり取りを繰り返していると、ホームにまもなく電車が通過するというアナウンスが響いた。

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