疑惑10
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 電車に乗る頃には落ち着きを取り戻したつもりだったけれど、僕は大事なことを忘れていた。そのことに気づいたのは一夜明け、学校に出勤してからだった。いつものように職員室に顔を出してから準備室に向かい、渡り廊下にたどり着いたところで僕は首を傾げた。

 廊下の先、準備室の前に座り込んでいる生徒がいる。片膝を立て顔は俯けていたが、それが誰なのかすぐに気がついた。
 けれどまだほとんどの生徒が登校していない早朝、まさかそこにいるとは思いもよらず僕の鼓動は少し音を早めてしまう。そして慌てて傍に駆け寄って、僕は膝をつくと下を向いている顔を覗き込んだ。

「藤堂?」

「……佐樹、さん?」

 閉じられていたまぶたが僕の声で震え、ゆっくりと持ち上げられる。何度か目を瞬かせて藤堂はゆっくりと顔を持ち上げた。そして視線が合った途端に腕を掴まれ抱き寄せられる。突然のことに構える間もなく、僕の身体は藤堂の腕の中に閉じ込められた。

「ちょ、待った藤堂」

 慌てる僕をよそに藤堂の腕は力強くて、簡単に抜け出せそうにはなかった。それどころか僕が身をよじらせるほどに抱きしめる力は強くなる。

「よかった」

「え?」

「なにかあったんじゃないかって心配してました」

「あ、悪い。連絡、してなかった」

 顔を寄せて頬にすり寄る藤堂は安堵したように息を吐く。そんな藤堂の言葉に僕はやっと大事なことを思い出した。
 昨日帰ったら連絡すると言っていたのに、僕はそれをしないまま眠りについてしまったのだ。落ち着いたつもりでいたけれど、緊張はほぐれていなかったのかもしれない。それとも気が抜け過ぎたのだろうか。

「えっと、藤堂、とりあえず中に入って話そう」

 まだ登校してくる生徒が少ないとはいえ、いないわけではない。中二階の踊り場からここはまっすぐで、誰かが通ったらすぐに気づかれてしまう。
 藤堂をそっと見上げたら腕がゆっくり離れていく。僕は急いで立ち上がると準備室の鍵を開け、その戸を引いた。

「いつからここにいたんだ」

「六時半くらい」

「え? そんなに早くから?」

 後ろ手に準備室の戸を閉めた藤堂が呟いた時刻に僕は思わず目を見張ってしまう。早い生徒は七時過ぎ頃に登校してくることもあるが、それよりもずっと前からここにいたのかと思えば驚きしかない。いまは七時半だから、一時間も準備室の前にいたことになる。

「心配で眠れなかった」

 ゆっくりと近づいてきた藤堂の腕が伸ばされ、また僕の身体を強く抱きしめる。抱きすくめるみたいに身体を包まれて、心臓が少し跳ね上がった。首筋に顔を埋められて、胸の音を聞かれてしまうのではないかと思うほどに、跳ね上がった心音は動きを早める。

「ごめんな、その、携帯電話が壊れて」

「なにかあったんですか?」

 昨日の出来事を話すべきか悩んでいると、心配げな視線が僕の顔を覗き込む。まっすぐな視線を受けて、僕は言い淀んだ言葉を飲み込んでしまった。済んだ出来事だしこれ以上心配をかけるのも申し訳ない気がして、僕は少し目を伏せてしまう。

「いや、線路に落として、それで壊した」

「そうだったんですね。佐樹さんになにもないならよかった」

 ひと目でわかるほどに安堵した表情を浮かべられて少し胸が痛んだ。隠し事をしているのが少し後ろめたい。けれどやはり余計な心配はさせたくなくて、僕は小さく頷いた。

「よかった」

「藤堂もしかしてほんとに全然寝てない?」

 抱きしめる腕や身体がいつもより少し体温が高い気がして、僕は藤堂を見上げた。すると少し困った顔をして藤堂は小さく笑う。その表情に僕は思わず腕を伸ばして藤堂の首筋に抱きついた。

「ほんとに悪かった。家からでも電話すればよかった。なんで忘れたりなんかしたんだろう」

 自分の迂闊さが嫌になる。予想外の出来事があったとは言え、藤堂のことまで忘れてしまうなんて僕はどうかしていた。心配性な藤堂が僕からの連絡を待って一晩もどんな不安な気持ちでいたのだろうかと、思うほどに胸が締めつけられる。

「大丈夫ですよ。さっきまで寝ていたし、昼にまた少し寝ますから」

「今日はバイトあるのに」

「平気です」

 しがみつく僕の背を優しく叩いて藤堂は頬に唇を落とした。

「藤堂?」

 触れるだけの微かな口づけはさらにまぶたやこめかみにも落とされ、次第に口づけが下りて顎をすくい上げた。自然と上を向かされて僕を見下ろす視線に囚われる。
 それが気恥ずかしくて目を伏せたら、ゆるりと弧を描いた藤堂の唇が近づきやんわりと唇に口づけられた。そして最初は触れるだけだった口づけは少しずつ深くなり、舌先を絡め取られる。

「んっ」

 いつもより熱い舌が優しく口内を撫でるたびに鼻を抜けて甘えた声が漏れる。それが恥ずかしくて必死に飲み込もうとするけれど、背中を走るむずむずとした感覚に声が上擦って何度も飲み込みきれない声がこぼれた。
 そんな縋るような自分の声に顔が熱くなるが、顔を俯けることもできなくて、視線が絡まないように目を伏せるだけで精一杯だった。

「とう、ど、待って……んっ」

 半ば開きっぱなしになっている口からは甘さを含んだ声が漏れて肩が震える。痺れるような感覚に足や腰の力が抜け落ちてしまいそうで、しがみつくように首に回した腕に力を込めたら、藤堂の手が支えるように抱き寄せてくれた。

「佐樹さん大丈夫?」

「ぁっ、いまあんまりそこ、触るな」

 くすぐるように耳裏や耳たぶに触れられてまた背中の辺りがむずむずとする。さらに口の端を舌先で舐められると肩が跳ね上がった。

「わざとだろ」

 目の前にある瞳がいたずらの色を含んでいるのに気づき目を細めれば、藤堂は小さく笑って誤魔化すように僕の髪を梳いて撫でる。そんな優しい指先に流されてしまいそうになるが、文句の代わりに肩口を拳で軽く叩いてやった。

「佐樹さんが可愛いから」

「もう名前で呼ぶの禁止、ここ学校だ」

 からかうように緩んだ口元を両手で塞いで眉をひそめたのに、藤堂の目は優しく微笑みを浮かべる。優し過ぎるそれがなんだかくすぐったくて、僕は頬を熱くしながら身体を離して目を伏せた。
 けれどそんな僕を追い藤堂の指先がこちらへ向けられる。そしてその指先が前髪をすくい、頬に触れた。

「藤、堂」

「可愛い」

「しつこい」

 微かに触れた感触にじわりとそこから熱が広がる気がした。とっさにまぶたを閉じてしまった僕に藤堂がふっと小さく笑った気配を感じる。
 その笑みはまるでまだ触れていたいという僕の内側にある気持ちを見透かしているようで、恥ずかしさと焦りに似た感情に胸の音がどんどんと早まっていく。指先で顎をなぞられるとそれだけで肩が跳ねた。

「佐樹さん」

「あ、やだ。も、うやめろ」

 指先が首筋をなぞるたびに肌がざわめく。両肩を押し離すように手をつくが、隙間はすぐに埋められてしまった。触れる唇の熱さに酔いが回ったみたいに頭がくらりとする。うっすらと目を開けると、まっすぐとした目が自分を見つめていた。その瞳に思わず手を伸ばせば、そっと頬に引き寄せられる。

「佐樹さんになにもなくてよかった」

「あ、ほんとに、ごめんな」

「もう安心したので大丈夫です」

 再び引き寄せられて包み込むように抱きしめられた。目を閉じて耳をすませば、耳元にゆっくりとした心音が響いて心地いい。この音を聞くと藤堂の存在がなによりも傍にある気がして心が落ち着く気がする。
 しかし訪れた沈黙を破る小さな音が聞こえた。その音に僕は閉じていた目を開き振り返る。するとまた小さな音が響く。部屋の戸を叩く音にようやく現実に帰った気分だった。

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