疑惑25
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 さすがに優勝を狙うだけはある。カフェとしての完成度はおそらく校内でも一番だろう。ここまで仕込まれるとほかのクラスはちょっと太刀打ちできない感じがする。
 ちょっと狡いと思えてしまうが、借り物さえ除けば管理システムも撮影関連の機材も生徒たちの手によるものらしい。人をいかにうまく使うか使わないか、そこは頭の使い方と腕の見せ所というわけだ。

「すみません。もう少し話していたいんですけど、そろそろ行かないといけないので」

「うん、悪かったな急に来て」

「いえ大丈夫です。あ、そうだ」

 踵を返し背中を向けた藤堂が急にこちらを振り返る。それに驚いて目を瞬かせたら、身を屈めた藤堂が耳元でぽつりと小さく呟いた。その思いがけない言葉に、僕は気持ちが浮ついてほんの少し頬が緩んでしまった。

 ――終わったら家に行きますね。

 たったそれだけなのに、このあとの仕事も気合いを入れて乗り切れそうになってしまう。単純なやつだなと思いながら藤堂の背中を見つめていたら、珈琲とケーキが運ばれてきた。

 藤堂くんからサービスですと差し出されたそれは、甘酸っぱい香りがした。りんごがツヤのある黄金色に仕上がったケーキはアップルシナモンだった。ふかふかのスポンジケーキも綺麗な焦げ目がついて見るからに美味しそうだ。
 ケーキもどうやら生徒たちの手作りらしい。

「あー、ほんとに仕事してないなぁ」

 のんびりとケーキを頬ばっている姿を見られたら、ほかの先生たちに苦い顔をされそうだ。けれどそう思っていても美味しそうなケーキを前にすると気持ちは大きく揺らぐ。心の中で謝罪をしつつ両手を合わせると、僕はアップルシナモンケーキにフォークを向けた。

「あ、うまい」

 りんごの甘味を生かしたさっぱりとした口当たりだ。ほのかに鼻先をくすぐるシナモンの香りと相まって甘酸っぱさがクセになる。添えられた生クリームも一緒に口に運ぶとまた格別だ。
 美味しいケーキに緩む頬は止まらず、さほど時間もかからぬうちにぺろりと平らげてしまった。そして最後にミルクだけ垂らした少し香ばしい珈琲を飲むとほっと息がついて出る。

「うん、今度こそ仕事をしよう」

 二度目の意気込みに自分のことながら苦笑いが浮かんでしまう。しかし仕事に戻らなければいけないのは確かだ。一度目の意気込みからすでに三十分が経過していた。

「ゆっくりできました?」

「ああ、うん。ご馳走さま」

 席を立った僕に気がついたのか、出入り口の近くにいた鳥羽がこちらを振り返った。やんわりと笑みを浮かべる鳥羽に頷き返せば、「それはよかった」とますます笑みを深くする。

「ん? あれ、ちょっと待った」

「どうかしまして?」

「あ、うーん、いやなんでもない」

 鳥羽のにこやかな笑みになにか引っかかるものを感じてしまう。そしてそれに気づいた僕は、あえてその場では気づかないことにした。なぜ僕が席についたところに藤堂がやってきたのか、なんてことは深く追求しないほうがいい。

「お仕事、頑張ってくださいね」

「ああ、ありがとう」

 廊下まで見送りにでてくれた鳥羽に片手を上げて返すと、僕は少しばかり鼓動が早くなった胸に手を当て特別教室をあとにした。
 なんだか秘密のはずなのに、知られていそうな人物が意外に多いことに気がついてしまう。

「もう少し気をつけよう」

 うっかりしていると気が緩んで気持ちが外側にあふれでてしまいそうなくらいだ。せめて学校にいるあいだくらい気を引き締めていかないと、誰に気づかれてしまうかわからない。
 いまのところ知っていると思われる生徒たちは口が堅そうだからと信頼が置けるが、さすがにこれ以上誰かに知られるのはよくないだろう。

「それでなくとも最近は身の回りが物騒だしな」

 藤堂に会えるのは嬉しいけれどまた心配をかけてしまうなと、思わず額を抑えてため息をついてしまった。早く原因が究明できるといいのだが、まったく手がかりがないのが現状だ。早く気がかりがなくなって、もっとゆっくり一緒に過ごせるようになるといいのに。

「ニッシー?」

「え? あ、野上」

 考え込んでいるうちに廊下で立ち止まっていたようだ。後ろから背中を叩かれて、僕は顔を跳ね上げて振り返った。

「どーしたの? 難しい顔して」

 振り返った先では新しく生徒会長になった野上が不思議そうな顔をして立っていた。キャラメル色の髪が首を傾げた方向にさらりと揺れる。

「いや、ちょっと考えごとしていただけだ」

「ニッシーって考えごとするといつも置物みたいだよねぇ」

 僕の言葉に野上は吹き出すようにして笑った。その反応に思わずムッと顔をしかめたら、ますます野上は肩を揺らし腹を抱えて笑い出す。

「ごめんごめん、怒った?」

「怒ってはない。本当のことだし」

 この集中すると周りが見えなくなる僕の癖は、生徒会などではよく知るところになっている。毎回ぼんやりしてしまう僕をみんなが楽しげに笑う。創立祭準備の頃は峰岸にいつもからかわれていた。

「それにしても真面目に会長やってるな」

 話題を変えようと野上をじっと見つめる。就任前は制服も着崩され、話し方も相まってどこかゆるっとした雰囲気だった。けれどいまの野上はきちりとネクタイを締め、身なりは整えられている。そして以前に比べたら間延びした話し方も少し控えめになったように感じた。

「みーくんが有能だから助かってるよ」

「ああ、柏木か。一年だけど先生たちの信頼も厚いし、副会長は適任だったよな」

「うん、ほんとみーくん様々だよ。なんでもできるんだもん」

 そういえば野上と柏木は創立祭の頃に、関係をこじらせていた気がする。あれからどうしたのだろう。あの手の問題は容易く解決するのは難しい。少し前に見かけた柏木は随分と大人しくなってしまった印象さえあった。

「じゃあ、柏木との仲違いは落ち着いたのか?」

「……うーん、みーくんと俺のは仲違いってわけじゃないんだよね。あれだな、俺がちゃんと理解するのに時間がかかっただけなんだよねぇ」

「そうか。理解した上で答えは出たのか?」

 誰かが誰かを好きになる――それはとても簡単な法則だけれど、野上に与えられた方程式は彼にとっては少しばかり難しいものだ。そう簡単には整理がつくものではないのだろう。少し考え込むように俯いた野上の横顔は真剣味を帯びていた。

「うーん、そうだな。俺もまだはっきり答えが出ていないから、みーくんにはちょっとだけ時間をもらうことにしたんだ」

「まあ、焦って答えを出すようなことでもないしな。野上のまっすぐな気持ち、柏木に伝えてやるといいさ」

 もしかしたら未来はほんの少し明るいのかもしれない。野上の言葉からは前向きに考えているようにも感じられた。
 いまはまだすんなりと受け入れられる状況ではないのかもしれないが、もしも気持ちが傾くことがあったら、そう思うと自分のことのように胸がドキドキとする。

 どんな恋愛でもまっすぐに見つめ合うことは必要なのだと改めて思った。僕も藤堂にまっすぐ向き合えているだろうか。この先もすれ違いや喧嘩もするかもしれない。そんな時、目の前にいる大事な人の手を離さず握っていられるだろうか。そんなことを思いながら、僕は野上の頭を優しく撫でた。
 いつでも彼らはまっすぐで忘れそうになることを思い出させてくれる。

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