疑惑26
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 なんだか早く藤堂に会って二人の時間を過ごしたいなと思った。しかし文化祭は十五時半までで、片付けもあるから終わるのは夕方になるだろう。それに生徒より僕たち教師のほうが終わるのが遅いことが予想できるので、まだあと数時間は会えそうにない。だいぶ待ち遠しい気分になってしまった。

「そういえば、今日のマミちゃんは口を開けば一言目にニッシーだったよ」

「え? そうなのか?」

「うん、ほんとにマミちゃんはニッシーが好きだよねぇ」

 あははと楽しげに笑う野上の言葉に、僕は思わず驚いてしまう。あまりにも仕事をサボり過ぎただろうか。間宮も意外と心配性だな。しかし怪我の一件もなにやら随分と心配をかけたようだし、あとで謝っておいたほうがいいかもしれない。

「俺は生徒会室に戻るけどニッシーは?」

「少し校内を見回ってから戻るよ」

「わかった。じゃあ俺行くねぇ」

 手を振り去っていく野上の背中を見送って、そのあとはしっかりと見回りの仕事に戻った。午前中から賑わっていたが、お昼を過ぎるとまたさらに人が増えて、どの教室も来場者でいっぱいだった。それに秋晴れで天気もよく、外で出店している生徒たちも忙しそうにしていた。

「例年以上の盛り上がりですね」

「確かに今年は来客数が多いなぁ」

 ひと通り見回りを済ませて職員室に顔を出すと、ほかの先生たちが数人集まっていた。
 毎年賑わいを見せる文化祭だったが、今年は本当に人が多いと思う。多めに刷ったはずパンフレットがほとんど残らず捌けている。やはりこれは賞金の力なのだろうか。そう思うとなんだか即物的だが、あながち間違いでもない。
 みんな終了後には投票の結果が出るのを首を長くして待っていることだろう。しかし結果は明日の祝日を挟んだ三日後だ。いまは楽しかった思い出のほうを存分に味わってもらいたい。

「あ、西岡先生。大丈夫でしたか?」

「え?」

 僕が職員室に入ってきたのに気がついたのか、先生の一人がこちらを向いた。そして僕はそれと共に投げかけられた言葉に首を傾げてしまう。

「あー、ほら、おでこ」

 訝しげな顔をしている僕に、声をかけてくれた先生はトントンと人差し指で自分の額を叩いてみせる。その仕草でようやく言葉の意味を理解した僕は、なんとも言いがたい複雑な気分になった。

「そんなに皆さんに知れ渡ってますか?」

 話を詳しく聞くと少しばかり尾ひれがついていた。額をぱっくりと割ったことになっていて、知らぬ場所で多大な心配をかけてしまっていたようだ。たんこぶ程度の怪我だと伝えると安堵したようにみんな笑い返してくれた。

 まったく人の噂や事実の歪曲とは恐ろしいものだ。一体どこからそんな話になっていたのだろうか。ほかの先生や生徒たちの反応次第では面倒なことになりそうな気がした。
 それでも走り去った生徒のことは話題に出なかったのでほっとする。あの時の二人には改めて礼を伝えておこう。

「あ、そろそろ終わりか」

 職員室にいる先生たちと見回りについての情報交換を終えて腕時計に視線を落とした。気づけばあと三十分ほどで賑やかだった文化祭も終わりだ。クラス担任や部活顧問の先生たちはそれぞれの出店場所へと向かい始めた。僕も一度生徒会室へ戻って報告などをしなければならない。

「ん? なんだ、これ」

 机の上に載せられたプリントやメモなどを見ていたら、重ねられた紙の隙間から見覚えのない封筒が滑り落ちた。床に落ちたそれを拾い上げて封筒の表と裏をひっくり返して見るが、そこにはなにも書かれてはいない。
 茶色い長封筒ではない真っ白な洋型封筒。時折こういった封筒を片平が持ってくることがあるので、もしやそれだろうかと僕は糊付けされた封筒をペーパーナイフで開けた。

 そこから現れたのは想像していた通り写真だった。けれどそれをなに気なく封筒から抜き取った瞬間、背筋がゾクリと冷えた気がする。そして思わず押し隠すように慌てて胸に写真を引き寄せてしまう。急激に心臓の音が早まって、耳元で鳴っているような錯覚に陥った。

「なんで」

 なぜこんなものがここにあるのだろう。僕の心の中は疑問と不安でいっぱいになる。
 写真に写っているのは僕――そして藤堂だ。いつ撮られたものかはわからないが、おそらくマンションの近くで、買い物帰りだろう。二人は私服で手を繋ぎ笑い合っていた。

 誰がこんなものを、そう思ってからすぐに僕を殴り逃げ去っていった制服姿の人物を思い出した。今日はたくさんの人が校内に出入りしている。しかし職員室の中は簡単に一般客が出入りはできないだろう。怪しまれずに入ることができるとしたら、生徒くらいのものだ。

「けど誰なんだ」

 これは急に来なくなった写真と関わりがあるのだろうか。そうなると校内に関係者がいるのか。いやしかしそう考えるのは早計過ぎる。考えたくはないがやはり第三者に金を握らせている可能性もある。
 駄目だ、いまいくら考えても答えは見つかりそうにない。一旦これは持ち帰ろう。考えるのはまた藤堂から話を聞いてからでも遅くはないだろう。握りしめていた写真を素早く封筒に戻すと、僕はそれを机の足元においていた鞄の中にしまいこんだ。

「わっ!」

 そしてほっと息をついたのと同時か、上着の内ポケットに入れていた携帯電話が震える。突然の振動に驚いて飛び上がった僕は、慌てて携帯電話を取り出した。

 ――気になることがあるから終わったらうちに来い。

 それは明良からのメールだった。恋人を迎えに行くからとそそくさ帰ったのに、一体どうしたのだろうか。不思議に思い返信をしてみれば、持ち帰った仕事があるからと相手の送り迎えをしただけで家に帰ったようだ。それにしても気になることとはなんだろうか。

 藤堂が家に来るからと断りを入れたいところだが、明良の話もすごく気になる。しばらく悩んでメールか電話では駄目だろうかとまた返信する。するとすぐさま――確かめたいことがあるから来い、と返ってきた。
 さすがにここまで来ると無下にして断るわけにもいかない。藤堂に会うのは楽しみだったが、明日は休みだし予定をずらしてもらおう。明良に了承の旨を伝えると僕は藤堂に謝罪のメールを送信した。

「西岡先生」

 送信完了の文字を見つめて大きなため息をついていると、急に背後から呼びかけられる。

「あ、間宮か」

 携帯電話をポケットにしまい振り返ると、戸口に間宮が立っていた。こちらを見る視線に笑みを返せば、間宮はゆっくりと職員室に足を踏み入れる。

「今日は色々と悪かったな」

「いえ、こちらこそ手伝っていただいて助かりました」

「僕は大したことはできていないぞ」

 朝から自分のことでバタバタして、のんきにお茶までしていた有様だ。校内を見て回ったのは午後の三時間程度だ。

「西岡先生はこのあとほかの先生たちと一緒に食事へ行かれますか?」

「え? そっか、打ち上げをやるのか。んー、いや僕はこのあと予定があるから行けないな」

 ここ数年イベントごとの打ち上げには参加していないので、少しくらい顔を出してもいいが、明日は休みだし盛り上がると遅くまで引き止められてしまう可能性がある。明良の話も気になるので今日はやめておこうと思った。

「間宮は行くのか?」

 じっとこちらを見ている間宮に首を傾げてみせると、少し慌てたように肩を跳ね上げたが、すぐに顔を横に振る。

「……いえ、私も今日は予定があるので」

「そうなのか。あ、生徒会の片付けとか手伝うな」

 気がつけばぼんやりしている間に十分くらい過ぎていた。生徒会は生徒たちの片付けが済んだあとに使用した教室などの点検を行うのだ。それに投票箱の回収と保管もしなくてはならないのでやることはまだまだ多い。

「なにからしたらいい?」

 またなにやら悩ましいことが増えて気になることは多いが、いまここで考えていても答えが見つかるわけでもない。気持ちを切り替えるように足を踏み出すと、僕は間宮の肩を叩いて前を向いた。

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