別離05
208/251

 電話口で言葉を交わしてから時間は流れて、早くも二週間が過ぎようとしていた。担当の医師の話によると、藤堂の怪我は順調に回復しているようだ。このまま行けば予定通りにあと半月くらいで退院できるだろうという話だった。

 休みを利用して毎日のように見舞いに来ていた僕は、藤堂が回復する様子を傍で見ながら胸を撫で下ろしていた。
 現場では出血が多くて、見ている自分のほうが心臓が止まってしまいそうな思いをした。けれど病院への搬送が早かったので大事には至らなかったようだ。

「藤堂、起きてるかな」

 左手に土産のぶどうが入った袋をぶら下げて、僕は藤堂のところへ向かっていた。いつものように病院の自動ドアをくぐり抜け、中に足を踏み入れると待合所にたくさんの人がいる。ここはこの辺りでも大きい病院なので毎日人の出入りが多いようだ。

「今日はどうかな」

 上階に向かうエスカレーターに乗りながら、僕は思わず呟いてしまった。怪我の具合は順調で、よほどの無理をしなければ心配ないと言われている。なので心配している藤堂のは怪我のことではない。心配なのは藤堂の様子だ。
 なに気なく時間が流れていく中で、僕は藤堂の様子に異変を感じ始めた。初めのうちは気のせいかとも思っていたが、次第に気のせいなどで済ませられる状況ではないことに気づかされる。

 入院当初はよく話をしてくれていたのに、最近ではすっかり言葉数も減って笑みを浮かべることもあまりなくなった。そしてなんだかいつも考え込むようにして、話しかけても上の空になることが増えたのだ。
 いつも人に気遣いをする藤堂からすると、考えられない反応だ。

「藤堂が悩むことってなんだろう」

 なにかを思い悩んでいるのはなんとなく雰囲気で感じ取れる。しかし藤堂がなにも言ってくれない状況では一緒に考えてあげることもできない。そもそもいま藤堂が傍にいることを望んでくれているのか、それさえもわからないくらいだ。
 もしかしたら一人になりたいと思っているかもしれない。けれどそうは思うものの、藤堂のことが気になって病室に足を向けてしまう。

「藤堂、具合はどうだ」

 いつものように病室にやってきた僕は、ベッドに横たわる藤堂に話しかけた。けれどそれに今日は返事はなかった。

「寝てるのか」

 どんな状況でも人を無視するようなことはしない藤堂だ。寝ているのだろうと思い、僕は持ってきたぶどうに視線を落とすとそれを洗いに給湯室へと向かうことにした。
 そういえば近頃は言葉を交わすこともかなり少なくなった気がする。ぼんやりしている藤堂は、時々思い出したように僕を振り返って申し訳なさそうに謝る。けれど時間が経つとまたなにやら考え事をし始めて上の空になってしまうのだ。

 一度なにかあったのかと聞いてみたこともあるが、曖昧に濁され答えてはもらえなかった。
 二人の時間が増えて距離は近くなったはずなのに、いまだに自分一人でなんでも抱えてしまう癖があるのだなと、その時はすごく寂しくもなった。もっと僕に頼ってくれればいいのにとそう思わずにいられない。

「僕にできることはないのかな」

 思わず大きなため息がもれてしまう。しかし藤堂が頑なに自分の中に押し込めようとする時は、なにかを消化しきれない時だ。それは誰かに話して楽になるようなものではないことが多い。
 そういえば藤堂の様子がおかしくなったのはいつくらいからだっただろうか。まだ最初の数日くらいはそんなに暗い顔を見せることはなかった気がするのだが。なにが原因なのだろう。

「また様子を見て聞いてみるか」

 いまは言いたくないかもしれないが、落ち着いたら話してくれるようになるかもしれない。

「……ねぇねぇ、個室の優哉くんのところ」

 ため息交じりに給湯室でぶどうを洗っていたら、ふいに人の話し声が聞こえた。その会話に含まれていた名前に僕は思わず反応してしまう。

「ああ、あれね。また来てるでしょう」

 ひそめた声は病院の看護師のものだ。こっそりと給湯室から外を見ると、廊下の隅で二人顔をつき合わせているのが見えた。その二人は何度も藤堂の病室に来たことがある看護師たちではないだろうか。

「あ、もしかして」

 彼女たちは毎日藤堂の様子を見ているのだから、藤堂が思い悩んでいることをなにか知っているのかもしれない。そう思った僕は給湯室に身をひそめて聞き耳を立てることにした。

「あれないわよね。仮にも父親でしょう」

「前に声が外までもれてるって言うので師長さんが注意しに行ったら、床に頭を擦りつけて土下座までしてたっていう話じゃない。一緒についていった子がびっくりしたって言ってた」

 なんだか話の内容が不穏な雰囲気だ。藤堂の父親――それは家を出てしまったというその人のことだろうか。もしかして藤堂が気を病ませているのは父親が原因なのか。声や言葉を聞く限り看護師から見た父親の印象は悪いようだ。

「自分が再婚したいから早く離婚したいらしいわよ」

 そういえば夏に両親のあいだで離婚の話が上がっていると言っていた。けれど母親のほうが同意をしていないという話だった気がする。父親が離婚を押し進めているということはあれから進展があったのだろうか。

「お母さん精神病棟に入院中でしょう。優哉くんの引き取り手がないじゃない」

「ほら、秘書の人が毎日のように病室に来てる、優哉くんの伯父さんが後見人になるって噂」

「ああ、あの人。私あんまり印象よくないかな。優哉くん可哀想」

 盗み聞いた内容は想像以上に最悪に近いものだった。もしかしていまの藤堂は自分の身の置き場がわからなくなっているんじゃないだろうか。

 十八歳になったとはいえまだ藤堂は未成年だ。大人の都合でいくらでもその身を振り回されるだろう。どれもこれも想像の域を出ないが、藤堂が窮地に立たされているのはなんとなくわかった。
 立ち話をしていた看護師たちがいなくなったのを見計らい、急いで僕は藤堂の病室へと向かうことにした。

「あれ? 誰かいる?」

 病室の前まで来て中に誰かいることに気がついた。藤堂の声ではない誰かのものが聞こえる。いったい誰だろうかと扉の前で足を止めた僕は、先ほど看護師たちが言っていた言葉を思い出す。

「そういえば、いまも来てるって」

 だとすると中にいるのは藤堂の父親か。彼を残して出て行ってしまったというその人は、いったいどんな人なのだろう。しかし気にはなったがいきなり部屋に立ち入るのも気が引ける。しばらくその場に立ち、耳を澄ませてみることにした。

「頼む、優哉! 一生の願いだ!」

 じっと耳を傾けていると、中から時折声がもれ聞こえてくる。その声はどれも一方的なものばかりだった。藤堂の声は聞こえない。何度も聞こえてくるのは「別れさせてくれ」、「頷くだけでいい」そんな言葉だ。

「兄さんの養子になれば、この先の人生食うに困ることはないだろう! お前にだって条件のいい話じゃないか!」

 容赦なく藤堂に吐き出される言葉はあまりにもひどい。それは自分たちにとって都合のいい話であって、藤堂自身が望んでいることじゃない。それなのにさもそれが藤堂のためであるような言い方。どうしてそんな勝手なことが言えるのだろう。

 藤堂はいつだって両親の身勝手な感情に振り回されて傷ついてきた。すべてが藤堂のせいみたいに全部押しつけて、自分たちばかりが被害者のような顔をする。
 藤堂がどんな痛みを抱えてきたか、きっとそんなことすら考えもしないんだ。胃の辺りがカッと熱くなり、気がつけば僕は戸を大きく開いていた。

リアクション各5回・メッセージ:Clap