別離18
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 好きな人がほかの誰かに向ける視線は、ひどく胸を焦げつかせる。確かにその手を繋いでいても、自分以外の誰かをその目に映すことが我慢できなくなってしまう。好きになればなるほどに、すべてが欲しいと心が騒ぐ。相手を想う気持ちほど厄介なものはない。

「貴也から見たユウはどんな印象?」

「ミナトはいまでも忘れてないし、優しいんだろうけど。話を聞いてると誠実そうには感じないな。相手に対して曖昧なまま付き合うとか、するべきじゃないだろう」

「んー、なるほど、厳しいな。でも僕は不器用なだけで、真面目で誠実な人間だと思ってるよ」

 裏表のない貴也の言葉には苦笑いが浮かんでしまう。確かに肝心なことを話してくれないとか、急にいなくなってしまうとか、そういうところはあるから自分の存在意義を疑ってしまうけど。
 藤堂が不誠実だと思ったことは一度もない。むしろ人のことを考え過ぎて自分を追い詰めてしまうようなタイプだと思っている。

 あの頃の藤堂は僕を忘れようとしていた。だから相手を本気で好きになろうと、真剣に向き合っていたはずだ。藤堂は他人を蔑ろにできる人間じゃない。傍に寄せた相手にはいつだって誠実だった。
 そう思うからこそ早く会って確かめたいと心が急いてしまう。相手に向き合えなくなるほどに、心が折れてしまってはいないかと、ひどく心配になってしまうんだ。

「不安になるようなことされてるのに、それでも信じてるんだ」

「うん、信じてる。わけもなくいなくなるような奴じゃないって」

 本当を言えばいなくなる前にちゃんと話して欲しいし、頼って欲しいと思う。でもおそらく僕のこともいなくなる理由に含まれているんじゃないだろうか。僕になにかしらの危害が及ぶかもしれないから、それを避けるために姿を消した可能性だってある。

「だけど、恋人を置き去りにするようなことはするべきじゃない。ちゃんと怒ったほうがいい」

「ああ、そうだな。それは叱らなくちゃ駄目だよな」

 色んな理由があると推測はできるが、まずはなにも言わずにいなくなったことは怒ってもいいだろう。こんなに心配させたのだから、一言くらい文句を言っても罰は当たらないはずだ。
 大きく頷いた僕を見ながら貴也は微かに口元を緩めて笑った。そして湯気立つカップをカウンターに置いて、僕の前へとすべらせる。

「ありがとう」

 差し出されたカップを手に取り持ち上げると、柔らかい珈琲の香りが鼻先に広がりほっと息がついてでる。気持ちが落ち着く優しい香りだ。そっと口に運べば、ほろ苦いまろやかな味が口の中を満たした。

「お互い遠慮ばかりしていてもいいことない」

「そうだな。僕たちにはもう少し話し合いが必要だ」

 お互いのことは話してきたつもりだったけれど、どこかにまだ遠慮があったのかもしれない。傷つかないように、傷つけないように、深い場所へ立ち入ることをしてこなかった。多分なにかの拍子に繋いだ手が解けてしまうのが怖かったんだ。
 けれどこんな風に離れてしまうくらいなら、言い争いするくらいに本音でもっとぶつかりあえばよかった。そうすれば藤堂も一人で抱え込むことはしなかったかもしれない。

「まだ間に合うかな」

「遅くはないと思うけど」

「うん、そうだよな」

 出会ってから時間は過ぎたけれど、僕と藤堂はまだ始まったばかりだ。これからなのだから遅くはないと信じたい。

「そういえば、荻野さんってどんな人?」

 まずは現実問題から目を背けないことから始めよう。そう思い避けたい話題をあえて聞いてみた。僕から聞くのはやはり意外だったのか、貴也は少し驚いた顔をした。

「……俺は実際会ったことない。けど話でなら聞いたことある。人付き合いが上手な、大らかで明るい楽しい人だって」

「ふぅん、そうなのか」

 きっとそこにいるだけで人を惹きつけるような、華やかさがある人なのだろうなと思った。例えるならば峰岸のようなタイプの人だろうか。
 人付き合いがうまいと言うことはきっと気配りができる人なのだろう。気遣いのできる優しい人か。ちょっと僕とは反対な人だな。

「噂だって」

「え?」

「付き合っていたってのは噂で、実際そうなのかはわからないって」

 主語の足りない貴也の言葉に思わず首を傾げてしまったが、すぐになんの話をしているのか気がついた。さっきミナトが言っていたことを訂正してくれたのだ。噂と言うことは、事実ではないかもしれないのか。貴也の気遣いが嬉しくて少し気持ちが浮上した。

「気にしてるみたいだから」

「うん、ありがとう」

 目を伏せ手元のグラスを磨く貴也の表情にあまり変化はないけれど、思わず浮かべた僕の笑みにほんの少し空気を和らげる。その優しい雰囲気が心地よくて、僕は珈琲カップを傾けながら口元を緩めてしまった。

「ごめん、お待たせ」

 しばらくゆったりとした時間を過ごしていると、スイングドアが開きミナトが顔を出した。戻ってきたミナトは先ほどまでの私服ではなく、貴也と同じ黒のスラックスにベスト、真っ白いシャツに着替えられていた。

「あれ?」

 襟元のネクタイを結びながらミナトは小さく首を傾げた。そして僕と貴也を見てちょっと拗ねたように口をとがらせる。

「ちょっと離れてたあいだになんか仲よくなった?」

「え? そんなに親しくなるほど話はしていないぞ」

「貴也、なんでそんなに態度変わってるの! ほかの人に優しい顔しないでよ」

 思いがけないミナトの言葉に僕は目を瞬かせて驚いてしまった。けれど僕の話など聞こえていないミナトは、ぴったりと貴也の横にくっつくと表情の少ないその顔をじっと見つめている。

「浮気したら泣くからな」

「してない」

 ぎゅっと腕にしがみつくミナトにも貴也の表情はちっとも変わらない。そんな素っ気ない反応にミナトは頬を膨らませると、肩口に額を寄せぐりぐりと擦りつける。

「いいなとか思ったら怒るからな」

「思ってない。そんなことより電話、したんだろ」

「そんなこと! もー、貴也! そういう言い方は傷つくっていっつも言ってるだろ!」

 すり寄るミナトの頭を片手で押しやる貴也の表情は、先ほどまで無表情だったのにいまはどこか楽しげだった。言葉数や表情など豊かではないけれど、やはり恋人は特別なのだなと見ていてなんだか微笑ましくなる。
 藤堂も時々拗ねたり怒ったりもするし、無邪気に笑った時などは自分にだけ向けられている表情だと優越感に浸ったものだ。

「話のほうが先だろ」

「あ、ごめん」

 前髪をかき乱すように撫でる貴也の手に頬を緩めたミナトは、ようやく満足したのか僕をいま思い出したかように慌てて振り返る。その焦った表情に僕は吹き出すように笑ってしまった。ミナトの行動には嫌みがない。素直でまっすぐな性格がよくわかる。

「あ、えっと。奈智さんに連絡はついたんだけど、仕事が忙しいからすぐは会えないみたいなんだ。それでもいい?」

「ああ、構わない」

「ユウのこと聞き出せたらよかったんだけど、常連の小林さんにまでユウがいなくなったことは話せないし、ユウのことで話がしたい人がいるってことになってる。これ連絡先と待ち合わせ場所」

 差し出されたメモには日付と電話番号、店の名前らしきものが書いてあった。メモを受け取りしばらくそれをじっと見つめてしまう。こうして時間を作ってまで会ってくれるのは、藤堂のことをなにか知っているからなのだろうか。
 いや、いまは理由などなんでもいい。どんな些細なことでもいい、藤堂に関することがわかればそれだけで十分だ。微かな期待を込めて僕はメモを胸に引き寄せた。

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