別離23
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 藤堂からの連絡を待っているあいだにまた数日が過ぎて、約束の二週間後がやってきた。
 普段は滅多に着ないよそ行きのジャケットを着て、時間と場所を確認したら準備はほぼできたも同然だ。あの日以来、藤堂からの連絡は来ていないから、今日なにか収穫があればいいのだけれど。

 そう思いながらなに気なく部屋の姿見を覗き込むと、硬く引きつった面持ちの自分がいた。行き慣れない場所に向かう緊張と初めて会う人への緊張。そして藤堂の手がかりが知れるかどうかという不安がない交ぜになっているからだろうか。
 握った両手のひらに少し汗をかいているような気もする。大きく深呼吸を繰り返して、気持ちを入れ替えた。

「なるようにしかならない」

 自分に言い聞かせるように呟いて、ハンガーラックに掛かったピーコートを手に取った。するとそれと同時か、机の上に置いていた携帯電話が震えた。
 着信は短かったのでメールだろう。充電コードを抜き取り携帯電話を手に取ると、それを開いて受信ボックスを確認する。

「あ、ミナト」

 メールの送信主はミナトだった。約束の日を覚えていてくれたようだ。届いたメールには「いい話が聞けるように祈ってる」という激励の言葉が綴られていた。絵文字いっぱいのキラキラとした賑やかなメールに思わず笑みが浮かぶ。

 何度かメールのやり取りをしたことがあるが、いつもミナトのメールは色とりどりで学生とやり取りしている気分になる。しかしおかげでほんの少し肩の力が抜けたかもしれない。
 お礼を含めて「行ってきます」とメールに返事をして、コートに袖を通した。そしてポケットに携帯電話を突っ込み、ベッドの上に置いていた肩掛けの鞄を手に取る。

「よし、行くか」

 斜めがけにした鞄の中身を確認してから、僕は腕時計に視線を落とした。時刻は十七時を少し回ったところだ。約束の時間は十九時で、ここから四十分もあれば着くのだが遅れるよりはいいだろう。早く着いたら時間をどこかでつぶせばいい。
 そう思いながら部屋をあとにすると、僕は足早に玄関に向かう。

「やっぱり少し気持ちが急いているのかな」

 無意識に足を速めていることに気づき思わず苦笑いしてしまう。
 電話が来たあの日からずっと、藤堂のことが気がかりで、毎日気がつけば携帯電話を手にして電話をかけていた。

 そしてどこかでタイミングよく繋がったらいいな、なんて思いながら聞き飽きたアナウンスにため息をついた。
 そんな毎日が早く終わればいいと心の中でずっと思っていたから、その気持ちが先へ先へと思いをはやらせるのだろう。

「荻野さん、藤堂の居場所を知ってるといいな」

 僕ではないほかの誰かを頼って身を寄せているのだとしたら、それは正直言ってかなり癪だ。けれどいまはそれでもいいと思えてしまうくらいに藤堂に会いたい。
 会えるのならその気に入らない部分は飲み込んでしまってもいい。ひねくれた考えだけれどそのくらいもう藤堂が足りない。
 たかが二週間、連絡がつかないだけなのに、会いたくてたまらない。

「あ、外もうだいぶ寒いな」

 玄関扉を開けたら冷たい風が吹きつけた。そういえば暦はもう十二月になっていた。今年もあとわずかかと思うと時間の流れを感じてしまう。
 藤堂は学校を一ヶ月以上も休んでしまったが大丈夫だろうか。元々成績もいいしそんなに心配しなくてもいいのかもしれないが、冬休みの前には学校に復帰できればいいなと思う。試験だけでもしっかりと受ければきっと卒業は問題ないはずだ。

「卒業式は見られるかな」

 できれば藤堂の卒業式を見たいなと思うけれど、いつ学校に復帰できるかもわからないのが現状だ。付き合っている相手が藤堂だと知れたら、卒業するまで学校には行けないかもしれない。でもまあ、藤堂が卒業できるのならそのくらいは我慢できる。

「目先のことよりその先のほうが大事だし」

 藤堂が卒業してからのほうが心配かもしれない。無事に専門学校には行けるようになるのだろうか。それに両親の離婚問題も解決していないし、藤堂はどんな選択をするのだろう。なにか考えがあるようだったけれど、その話も気になる。

「それは会ってから聞けばいいか」

 いまそんなことを考えても仕方がないと、肩をすくめて僕は一歩前へ足を踏み出した。

 約束していた店は裏路地にひっそりとある看板のない店だった。軒先に萌葱色ののれんが掛けられていて、そこに小さく店の名前が書いてある。事前に地図を確認していなければ、通り過ぎてしまいそうな店構えだ。

「間に合った」

 余裕を持って家を出たけれど、店に着いたのは十九時少し前だった。行き先は一駅先だというのに、乗り合わせた電車がトラブルで長らく止まってしまったのだ。
 降りられればよかったのだが、電車が少し走りだしてから急停車をしたので閉じ込められる形になった。

 駅からかなり全力で走り息が上がっている。入り口の前で深呼吸を繰り返し息を整えると、格子戸を引き開けてのれんをくぐった。

「いらっしゃいませ」

 戸の向こうにある店内は思ったよりも明るかった。入った店の正面には十人くらいが座れる白木のカウンターがあり、その中に真っ白な調理服に和帽被った人がいた。
 カウンターの中には同じ服装の人が三人ほどいるけれど、こちらを見て声をかけてくれたのは中年の料理長といった風情の人だ。

「女将お客様だ」

「いらっしゃいませ。お客様ご予約は?」

 緊張して固まっている僕のところに、桜色の着物を着た綺麗な女性が近づいてきた。かけられた声に我に返って振り向くと、穏やかな笑みを浮かべた女将と呼ばれた人が僕の返事を待っている。

「あ、荻野さんと待ち合わせをしているのですが」

「荻野様ですね。はい、お待ちになっておりますよ。こちらへどうぞ」

 僕の上擦った声を笑うこともせず、彼女は僕を店の奥へと案内してくれる。店はカウンターのあった場所だけでなく、奥のほうにも続いていた。
 靴を脱いで細長い廊下を抜けていく。カウンターがあった場所の明るさとは違い、こちらは照明を落としたほのかな明るさだ。

 廊下の両脇にある客間は座敷になっているようで、ほどよく距離が置かれすべて個室になっているようだ。人の声は聞き耳を立てないと聞こえないくらいで、賑やかな居酒屋くらいしか行ったことがない僕には敷居の高い場所だなと思った。

 楓の間と書かれた部屋の前に来ると、上着と荷物を預かると言われ、僕はあたふたしながらコートと鞄を手渡した。女将は後ろに控えていた萌葱色の着物を着た女性に僕の手荷物を引き渡すと、ふすまの前に正座をして中へと声をかける。

「荻野様、お連れ様がお見えになりました」

「どうぞ通してください」

 中から低音のよく通る優しげな声が聞こえた。その声に女将は僕に向かい頭を下げ、両手をふすまにかけゆっくりとそれを引いた。
 息を飲んだ僕の前に現れたのは、写真で見るよりも落ち着いた雰囲気を醸し出している青年。

 ブラウンのスーツにグレーのシャツ、ダークグリーンのネクタイと、装いもなんだかおしゃれだ。着る人が違えばキザに見えそうだが、それは後ろに撫でつけた赤茶色い髪と相まって彼によく似合っていた。
 入り口で固まっている僕に向けられる笑顔は穏やかなもので、彼は綺麗な茶色い瞳を細めていた。

「どうぞ入ってください」

「失礼します」

 大げさに頭を下げた僕に微かに笑う声が聞こえる。頬が熱くなるのに気がついたが、それでもなんとか彼の向かい側に腰を下ろした。すると部屋のふすまも静かに閉められ、二人きりの空間に変わる。平静を装うために僕は小さく深呼吸をして前を見据えた。

リアクション各5回・メッセージ:Clap