別離28
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 これはただの偶然にしては出来過ぎている。符合する二人。それを考えてふと時雨さんから聞いた話を思い出す。時雨さんの大事な子――それが藤堂であるならば、時雨さんの語っていた話となんとなく繋がる気がした。

「入院している甥っ子って、もしかして藤堂のことだったんですか?」

「そうですよ」

 至極当然のように返ってきた答えに戸惑うけれど、別に時雨さんは隠しごとをしていたわけではない。お互い同一人物を見舞っていたことを知らなかっただけだ。

「ああ、そうか。そういうことだったんですね」

「え? なんですか?」

 重くなりかけた雰囲気を打ち崩すように、時雨さんが突然なにやら楽しげに両手を叩いた。

「あの時、佐樹が可愛い顔をして私を見ていたのは、優哉と私を重ねていたからなんですね」

「え、かわ、えっ?」

 ふいになにかを思い出したかのように僕を指さした時雨さんは、急にとんでもないことを言い出した。それに驚いて時雨さんから顔をそらしたら、伸びてきた指先に顎をすくわれる。

「私を一目見た時から頬を染めて、見つめてきたまっすぐな視線。私に脈があるのかと期待していたのにとても残念です」

「え? あ、あの、すみません」

 あの時の僕はそんなに感情が顔に出ていたのだろうか。確かに藤堂と重なって変にドキマギさせられたが、あとのほうはだいぶ落ち着いて対応できていたと思っていたのに。

「謝られると失恋した気持ちになって傷つきますよ」

「失恋っ! からかわないでください」

「本気だったのですけどね」

 満面の笑みを浮かべてそんなことを言われても戸惑うばかりだ。荻野さんが言っていた好みが云々という話は、冗談ではなかったのだろうか。本気だとしたらそれは大いに困る。

「佐樹に怯えた顔をされると良心が痛みますね。アプローチはやめておきます。優哉の大事な人ですし」

 そっと顎に添えられた手が離れて、思わずほっと息をついてしまった。失礼な態度なのはわかっているが、やはり藤堂ではないと身体がこわばってしまう。

「佐樹そんなに緊張しないで、なにか飲みますか」

「飲めないので、水で大丈夫です」

「ノンアルコールのカクテルにしましょうか」

 流石に水はまずかっただろうか。小さく笑った時雨さんは片手を上げて店員を呼ぶと、なにやらよくわからない名前の飲み物を注文した。

「少しふざけてしまいましたが、話を戻しましょうか」

 店員のほうを向いていた時雨さんがゆっくりと振り返る。その眼差しからは真剣な色がうかがえた。

「あの、時雨さん。以前聞いた話でわからないことがあります。藤堂の父親は五年前に亡くなっているはずなんですが、どうして連絡が来たんですか」

 あの時聞いた話では、時雨さんのお兄さんは日本で生きているような口ぶりだった。だから僕は時雨さんと藤堂が結びつかなかった。兄から手紙が届いたから甥に会いに来たのではないのか。けれど五年も前に亡くなった人からの手紙はどうやって届くのだろう。

「あまり思い出したくないことですね、雅美みやびがもういないなんて」

「ミヤビさん?」

 声のトーンが少し下がり、時雨さんは穏やかな表情を消して目を伏せた。どこか傷ついたかのような横顔だ。不用意な僕の発言で気分を害してしまっただろうかと横顔を見つめたら、時雨さんはすぐに優しい笑みを浮かべてこちらを振り向いた。

「ああ、兄のことですよ。そうですね、確かに五年前に兄は亡くなりました。けれど家族は全員まだ受け入れられていないのが現実です」

「そう、なんですか。もしかして連れて帰りたいって言うのは、遺骨を持ち帰りたいって意味ですか?」

「ええ、雅美は日本に骨を残して欲しいと言っていたので、持ち帰ることができなかったのです。私たちは死に際にも火葬にも立ち会えなかった。知ったのはすべてが終わったあとでしたよ。本当にあの人らしい」

 だからあんな言い方をしていたのか。亡骸も骨も見ることもなかったから、まだ遠く離れた日本のどこかで生きているのだと、そう思っていたかったのかもしれない。話を聞いた時に愛されている人なんだなと思っていたが、ここまで深く想われているとは考えもしなかった。

「雅美からの手紙は二通目の遺言でした。息を引き取る間際に残したもので、優哉が十八歳になったら私たちに渡すよう弁護士に預けていたようです」

「それでいま、なんですね」

 遺言が開示されたのは藤堂の誕生日だろうか。五年が過ぎたいまでもまだ死を受け入れられていない家族にとっては、それは受け取りがたいものだったのかもしれない。
 知らされていない子供の存在に大いに戸惑ったことだろう。想いと現実の狭間で悩み、すぐに会いに来られなかったに違いない。だからいまなのだ。

「兄は勘が鋭いところがあったので、優哉になにかあると感じたのかもしれません」

「最後の夜に、藤堂は初めて実の父親に会ったそうです。その後に書かれた遺言なんでしょうか」

「おそらくそうでしょう。もう少し早く私が行動していればなにか違ったのかもしれませんが、過ぎてしまったことは変えられませんからね」

 事件が起きるより前に時雨さんが藤堂の前に現れていたら、もしかしたらこんなことにはならなかったかもしれない。
 けれど時雨さんが言うように過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がないのだ。いまは先のことを考えなくてはいけない。藤堂のこれからのことを話し合う必要がある。

「時雨さん……藤堂を、連れて帰るんですか?」

 あの時はなに気なく聞いていたことだが、藤堂の言葉と照らし合わせると納得がいく。自分がいなくなったらどうするかと聞いてきた藤堂。甥を連れて帰りたいと呟いた時雨さん。二つの言葉がここで繋がってしまう。
 けれど行き場所がなくて苦しんでいる藤堂を見たら、いますぐにでも連れ去りたいと思うだろう。愛おしいと感じた甥を前にそう思わないほうがおかしい。

「佐樹は離れていることができますか?」

「それは、正直いまはわかりません。けどきっと待つと思います」

 すぐに頷ける距離ではない。些細な距離を離れているだけでも遠いと感じるのに、国外になればもっと見えないこともわからないことも増える。そんな中で過ごしていけるのか、それはいまよくわからない。でもどうしてもその選択しかないのであれば、僕は藤堂を待つだけだ。

「そうですか。けれど優哉を見ていると佐樹と離れていられるとは思えない。しかし最終的には私の元へ来ることを選ぶと思いますよ」

 離れていられないけれど、時雨さんの元へ行くことを選ぶ。それは僕が一番考えたくない結末ではないだろうか。離れるのではなく、別れるのだとしたら言葉の意味が理解できる。でもそれは理解しても飲み込みたくない答えだ。

「佐樹、そんな顔をしないでください」

 そっと伸ばされた手は僕の頬に触れ、目尻を優しく撫でる。自分がいまどんな顔をしているのかすぐに想像できた。唇を引き結んだ僕は押し寄せてくる不安に負けそうだった。込み上がってくる感情をこらえるように俯いたら、指先は頭を撫でるように髪を梳いた。

「いま家には父と母、そして祖母がいます。父と母は最後まで反対していましたが、祖母は優哉に会いに行くよう私に勧めた人です。そんな彼女は高齢でもう先は長くない。けれどひ孫と一緒に暮らしたいと望んでいます」

 そんなのは答えがもう決まっているようなものだ。小さなたった一つの願いを叶えたいと思う人を、どうして無下にできるだろう。
 藤堂だって愛おしいと愛情を持ってくれる肉親に会えて、嬉しいと感じないはずがない。本当の家族の元へ行くことが藤堂にとって大事なことなんじゃないだろうか。
 けれど離れているのは我慢できても、別れる選択だけはしたくない。

「一年でも二年でも、いえ五年でも十年でもいい。いくらでも待ちます、待ちますから、藤堂に会って話をさせてください。ちゃんと彼の答えを聞かせてください」

 曽祖母が亡くなれば、藤堂はまた日本に帰ってこられるのかもしれない。だけど人の寿命が終わるのを待ち望みたくはない。それに藤堂には幸せになって欲しいから、僕は離れて暮らすことを選んでもいい。
 いつか藤堂の心が落ち着いて、戻ってくる日まで何年でも待っていようと思う。そしてそれを自分に納得させるためにも藤堂と話がしたい。周りの言葉に振り回されて傷つくのはもう嫌だ。

「……佐樹」

「別れたくないんです。藤堂の答えを聞かないまま、なにかを飲み込むことはできません」

 この先、一生かかっても藤堂より愛おしいと思える人にはもう出会えないと思う。これからの未来をすべて捧げてもいいと思えるくらいに彼が好きで仕方がない。

「独りよがりなのはわかっています。けどこのまま終わりにしたくない」

 随分前に見た夢が思い起こされて胸がひどく痛んだ。去りゆく背中を思い出すだけで、こらえていたものがあふれ出してしまう。あの時の予感がいまだなんて思いたくない。

「優哉は恋人を残していくことに強い抵抗を感じていました。だから私は恋人も連れて行くことも勧めたんです」

「え?」

「けれどそれに対しても、優哉は頷くことはなかった」

 どうして離れる以外の選択肢があったというのに、藤堂は一緒に行くことを望んでくれなかったのだろう。望んでくれるのなら僕はどこへだって行くのに、どこへだってついて行くのに――なぜ?

「おそらく、あなたにすべてを捨てさせることができなかったんですよ」

「捨てる? すべてを?」

 時雨さんの言葉に僕は弾かれるように顔を上げた。すべてを捨てる――それは家族、友人、学校や僕の日常、そのすべてだ。けれどそれを秤にかけても、僕は藤堂を選ぶに決まっている。彼が自分を望んでくれることのほうがずっと重要だ。

「馬鹿だ、藤堂は本当に馬鹿だ。そんなの一生帰れないわけじゃないのに、藤堂がいてくれればそれだけでいいのに」

 いつもそうだ。藤堂は人のことばかり考えて、考え過ぎて自分を追い詰めてしまう。やっぱり僕のことが藤堂を苦しめている原因だったんだ。それでも藤堂も離れたくないと思ってくれている。

「佐樹、答えは二択です。一人か、二人か、どちらを選ぶのか。二人で選択してください」

「……答えはどちらか」

 僕たちはもっと言葉を伝え合わなければ、すれ違ったままだ。藤堂もずっと暗い出口のない道を歩き続けるばかりになってしまう。そんなの苦しくて辛いだけで幸せになんてなれない。だけどまだ間に合う。たった二つの選択しかなくても、僕たちはきっと最良の答えを選べるはずだ。
 こぼれ落ちたものを拭うと、僕はまっすぐに時雨さんの瞳を見つめ返した。僕の視線に時雨さんは小さく頷き、優しく微笑んでくれた。

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