始まり05
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 人のざわめきがあふれている。そんな広い空港の中を僕はいま足早に歩いていた。片手に握りしめたメモには到着便の便名と到着時刻が書かれている。
 飛行機の到着時間が間近に迫り、三人は駐車場に行く前に僕を到着口のあるターミナルで下ろしてくれた。飛行機到着まであと十数分――下りてから手荷物を受け取り、到着口に出てくるまで時間はかかるだろうけれど、気持ちは少しでも早くと急いていた。

 走り出したい気持ちを抑えて歩いていると、ふいに鏡が目端に止まる。なに気なく立ち止まりその中の自分を覗いた僕は、少し乱れた髪に気がつき慌てて手ぐしで整えた。
 そして緩んだネクタイをきつく締め直す。一通り鏡の前で身なりを整えるとほっと息をつき、今度はゆっくりと歩き出した。

 鏡を覗いて慌てた自分を見たら、少し気持ちが落ち着いたかもしれない。そして冷静になると鏡の中の自分を思い出す。あれから時間が流れてそれと共に歳も重ねた。
 そんなに変わっていないと思っているけれど、くたびれたおじさんになってはいないだろうか。まだ若いつもりでいるが、もう三十代も後半にさしかかった。

 それに比べて彼はまだまだ若い二十代前半。会ってがっかりされたら嫌だな、なんて心の隅で考えてしまう。
 どんなにあがいても縮まらない時間の差なのに、時々我に返ったように思い出す。彼よりも十五年先を歩く自分の姿。

「そんなこと、いま気にしても仕方がないか」

 少し気持ちが落ち込んだような気がして、僕は首を振って余計な考えを振り払った。その答えは本人から直接聞けばいい。いまは会いたい気持ちを優先させよう。

「あ、もう到着したんだ」

 人混みをすり抜けて到着ロビーにつくと、電光掲示板に着陸済みを知らせる文字があった。出口付近は搭乗者を待っている人であふれていたけれど、さらにその隙間を縫って近づいていく。そして手荷物を受け取って出てくるだろう場所に移動して、僕は思わず息を飲み込んだ。

 なんだかやけに緊張してきた。ざわざわとする人の話し声が遠くに感じるくらい、じっとガラスの向こう側を見つめる。それからどのくらい時間が過ぎたかわからないが、人が次々と奥のほうからやってきた。
 詰めていた息を吐き出すと僕は深呼吸をする。僕に時間が流れたように向こうも時間が過ぎた。彼は四年経って変わっただろうか。ちゃんと見つけられるだろうか。

「……いた」

 ガラスの向こう側に釘付けになっていた僕は、見つけたその姿に大きく息をついた。不安が一瞬で霧散した。そんな考えは杞憂だったと僕はすぐに考えを改める。
 彼は確かに少し変わったかもしれない。横顔がずいぶんと大人びて精悍な顔つきになった気がする。元々背は高いけれど、以前より高く見えるのは身体つきのせいだろうか。

 肩幅もしっかりとして、着ているロングジャケットの上からでも逞しくなった身体がよくわかる。学生の頃から華奢な印象はまったくなかったが、その姿を見ると大人になったんだなというのをすごく感じた。
 十代と二十代――数年の差だけれど、この頃の数年というのは僕たちの年代の数年とは違う大きな成長だ。

「コンタクトにしたのかな。少し髪が伸びた。長いと余計大人びて見える」

 学生時代にかけていた眼鏡はしていない。全体的な雰囲気は中学の頃を思い出す。けれどあの頃と似ていてあの頃とは全然違う。
 いまのほうがもっと大人の色気もあり、なに気ない仕草を目にするだけでもすごく鼓動が早くなっていく。そして気がつけば僕は柱の陰に隠れていた。

「なんか顔が熱くなってきた」

 思っていた以上にいい男に成長していた。僕みたいな地味な人間が隣にいるのはもったいないくらいだ。火照る頬を押さえて俯くと、僕は何度も深呼吸を繰り返す。そっと陰からから盗み見た彼は、荷物を手にこちらへと向かってきていた。
 一歩一歩と近づいてくる姿に、どうしたらいいのかわからなくなってくる。いつまでもここに隠れているわけにはいかないとわかっているが、足がまったく前に進まない。

「なにしてるんだろう、自分」

 こんなはずではなかった。彼に会ったら真っ先に飛び出していくつもりだったのに、こんなところで臆病風に吹かれるなんて馬鹿みたいだ。
 自動ドアを抜けてきた彼はロビーの中程で立ち止まると、携帯電話を取り出しどこかへ連絡をしているようだった。指の動きでメールを打っているのがわかる。そして数分経つとどこかへ電話をし始めた。
 三島や片平に連絡を取ろうとしているのだろうか。けれど応答がないのか小さく息をついた。

「……あ」

 しばらくその場で佇んでいたが、ふいにこちらに背を向けて彼は歩き出そうとした。その瞬間、ずっと根を張り動かなかった足がようやく踏み出される。その場を立ち去ろうとする彼の背中を僕はとっさに追いかけていた。

「優哉っ」

 初めて呼んだ名前は少し震えた。けれど確かにその場に響いて、彼の足を止める。驚いた顔をして振り返った彼――優哉に向かって僕はまっすぐと駆け出していた。腕を伸ばしてしがみつくように抱きつけば、優哉はしっかりと受け止めて強く抱きしめ返してくれた。

「佐樹さん?」

「迎えに、来た」

 僕を抱きしめる腕の力強さを感じて、胸につっかえていたものが少しずつ消えていく。尻込みしていた自分はやっぱり馬鹿だな。
 こうして向き合えばどれほどこの男を待ち望んでいたのかがわかる。触れられることが嬉しくて、幸せで胸がいっぱいでどうにかなりそうだ。

「びっくりした。俺、ちゃんと佐樹さんに連絡してなかったのに」

 驚きをあらわにする優哉は僕の両頬に手を添えて、まっすぐにこちらを見つめてくる。いままでと違う、遮るものがないその視線に思わず頬が熱くなった。そしてこんなに彼を間近に感じて、胸の音が伝わってしまいそうなくらい鼓動が早くなる。

「うん、僕もついさっきお前が帰ってくるって聞いて、びっくりした」

「あ、ちゃんと伝えていなかったこと、怒ってますか?」

「全然、帰って来てくれて嬉しかった」

 少し焦ったように優哉は僕を抱き寄せる。けれど言い忘れていたことより、帰ってくる驚きや嬉しさのほうが勝って、怒るだなんて感情は忘れていた。自分の単純さがおかしくて小さく笑ったら、つられたのか優哉も笑って僕の髪に頬を寄せてきた。

「佐樹さん」

「ん?」

「もう一回、名前呼んで」

「……あ、えっと、優哉」

 耳元に囁きかけられる甘い言葉に誘われて、おずおずと名前を紡ぐ。呼びなれない名前はなんだかむず痒く、照れくささが胸に広がる。けれどそんな僕に満足したのか、こめかみに口づけてきた彼は何度も僕の髪に頬ずりをした。

「嬉しい。呼ばれるの楽しみにしてた」

「大げさだなぁ」

「なんだか前より近くなった気がするでしょう?」

「うん、まあ、確かに」

 ずっと優哉のことは苗字で藤堂と呼んできた。けれど時雨さんの籍に入ることで、藤堂ではなく橘に変わった。
 そのまま橘と呼ぶのもありではあったのだが、親しい相手でしかも恋人を、いつまでも苗字で呼ぶなんておかしいかと思い至ったのだ。そして優哉にも相談して、いい機会だから呼び名を改めようということなった。

 しかし電話もしないので直接呼ぶことが今日までなかった。手紙ではすでに名前を綴っていたが、文字と声にして呼ぶのとでは大いに違う。
 初めて言葉にした名前はひどく胸を甘くさせた。

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