始まり09
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 佐樹さんの長湯は相変わらずだねと笑いながら、優哉は最後まで付き合ってくれた。二人で背中を流し合ったり髪を洗ってあげたり、湯船にのんびり浸かって過ごしていると時間はあっという間に過ぎる。

 いつものようにうたた寝する僕のうなじに口づけて、小さく笑う優哉の声が何度も耳に届いた。けれどなんだかそれさえも幸せに感じてしまう。そして背中を預けた胸が以前よりも逞しくなっていて、昔とは少し違うところを見つけてドキドキしてしまった。

 これから先も些細な変化を見つけて胸を躍らせるのだろうなと、自分のことながら想像が容易くて笑ってしまう。けれどこんな日常をずっと僕は待っていたのだ。
 一緒に暮らすことを夢見て五年も経った。ようやく願いが叶ったのだから、その喜びを噛みしめても罰は当たらないだろう。

「佐樹さん」

「ん?」

「今度キッチンに調味料とか色々増やしてもいい?」

 お風呂から上がると優哉はすぐさまキッチンに入り、明日の弁当の支度を始めた。帰ってきたばかりなのだから、のんびりすればいいのにと思うのだが、どうしても彼は僕の食生活が気になるようだ。

「もちろん、キッチンはお前の好きなように使っていいぞ」

「じゃあ、明日買い物する時に買ってきます」

「うん、これからまたお前の作るご飯が食べられると思うと楽しみだな」

 カウンター越しにキッチンを覗き込みながら、僕は手際よく調理をする優哉を眺めた。明日の弁当にはどうやら唐揚げにきんぴら、ポテトサラダが入るようだ。
 ふいにきんぴらを炒めるごま油の香りが鼻先をくすぐり、食事をしたあとだというのになんだか小腹が空いたような気になる。
 じっと見つめていたらそれに気がついたのか、優哉は口元を緩めて笑う。そして箸でひとつまみしてそれを僕のほうへと向けてきた。

「はい、佐樹さん味見」

「ん、いただきます」

 大きく口を開けて差し出されたきんぴらを口に含む。するとふんわりとした優しい味付けと、唐辛子のぴりっとした刺激が口の中に広がり頬が緩んだ。相変わらず優哉の作るきんぴらは美味しい。

「そういえば向こうにいた時は日本食も作ってあげていたのか?」

「そうですね。洋食よりも喜ばれていたかもしれません。みんな和食が好きでしたね」

 時雨さんたちと暮らしているあいだ、食事を作るのは優哉の役割だったと聞いている。毎日大変だがいい勉強になっていると以前手紙に書いてあった。
 行く前は不安そうにしていたけれど、いざ行ってみれば大歓迎をされて、帰すのは惜しいと泣きつかれたと言っていた。時雨さんはもちろんだが、祖父母にもかなり可愛がってもらったみたいだ。

「あ、そういえば時雨さんからお前宛てに荷物が届いているんだ」

「え? 時雨から?」

「うん、なんか毎年必ず届いてた。今年も春に届いたぞ。ちょっと待ってろ」

 不思議そうに首を傾げる優哉は届いている荷物に心当たりはないようだ。持ってきたほうが早いかと、僕は寝室とは別にあるもうひとつの部屋へと向かった。
 長らく客間として使っていたこの部屋は、優哉用の書斎にすることにした。勉強に使う本や資料なども多いと聞いていたので、優哉が帰ってきたら机や本棚を買いに行こうと思っていた。
 片付けてなにもなくなった部屋には、段ボールが一箱置いてあるだけだ。僕はそれを持ち上げると、またリビングへと戻っていった。

「これなんだけど」

 見た目は段ボール一箱で一抱えほどだが、三つある荷物はそれぞれに重かった。正方形で厚みは五、六センチほどだろうか。厚手の紙で丁寧に包装されていて中身はまったくわからない。
 リビングのテーブル脇に段ボールを下ろすと、優哉はキッチンを片付けてこちらへやって来た。

「優哉が日本へ帰った時に一緒に開けてくれって、時雨さんからの手紙には書いてた」

「なんだろう、あの人は意外と予想外のことするからな」

 段ボールから取り出した三つの包みをテーブルの上に置いた。包みには手書きで西暦で年が書いてある。ソファに座りしばらくそれらを見つめて首を傾げていたけれど、黙って見ていても仕方がないと、優哉は一番古い年代から包みを剥がし始める。
 そして二重、三重に巻かれた包みの中から出てきたのは、真っ白い表紙のアルバムだった。優哉が厚手の表紙を持ち上げてそれを開くと、一ページ目に大判の写真が一枚収められていた。

「あ、これ」

「この家族写真は、俺が向こうへ行ってすぐ撮ったやつです」

 真ん中に優哉と車いすに座る高齢の女性、その後ろに時雨さんと年配の男性と女性が写っている。車いすの女性と時雨さんはとてもいい笑顔をしているが、優哉やほかの二人は緊張しているのかぎこちない笑みを浮かべている。
 これは初めて会った記念の一枚というやつか。

「なんだか、懐かしいな。この人が曾祖母の静枝さん、後ろにいるのが祖父母で行秀さんと美里さん」

 写真を指さしながら優哉は一人一人の名前を上げていく。家族のあいだでおじいさん、おばあさんなどと呼ぶのは禁止になっていて、全員ファーストネームを呼ぶのが決まりになっているらしい。
 中でも時雨さんは敬称をつけるとよそよそしいからと「さん」をつけて呼ばせてもらえないのだと言っていた。しかし最初はかなり戸惑っていたが、いまでは自然と名前を呼べるようになったみたいだ。

「もしかしてこれ一冊ずつ年ごとの写真なんじゃないか」

 一年に一冊。優哉が向こうに行ってからの四年間を収めたアルバムだから三冊あるのか。こんなにたくさんの写真をアルバムいっぱいに貼り付けて、時雨さんはわざわざ整理していてくれていたんだ。

「こんなことを時雨がしていたなんて、全然知らなかった」

 分厚いアルバムに収められているたくさんの写真は、季節ごとの色んな表情を写している。春の桜や夏の海、秋の紅葉に冬の雪――たくさんの思い出の中でみんなはいつでも笑顔だ。幸せそうな家族の団らんがそこにはあって、ほっとした気持ちになる。

「向こうは日本と似た気候なので過ごしやすいですよ」

「そうなのか、海外って言ったら大学の時に南のほうへ行ったくらいだ」

 優哉の過ごした場所は緑がたくさんある、伸び伸びと過ごせるところだったのだろうな。写真には石造りの大きな家と、手入れの行き届いた広い庭が写っている。犬も飼っていたのだろうか。賢そうな顔をした真っ白な大型犬が二頭、家族の傍にいる。

「これはモナとカラって言うんです。まだ若いけれど温厚で飼い主には忠実、思いやりがあるいい子たちでしたよ」

「そうなんだ。可愛いな、お前にも懐いてたみたいだな」

 アルバムのページをめくるたびに、みんなの笑顔が眩しいくらいに輝いていく。
 これを見ていると家族として絆を深めている彼らの姿がよくわかる。写真の中の優哉も次第にぎこちなさが抜けて、見ているこちらまで笑顔になりそうな、心からの笑みを浮かべていた。

「佐樹さん、今度一緒に向こうへ行きませんか。行秀さんや美里さんに紹介したい」

「え? あ、家族に、紹介してくれるのか」

「もちろん。佐樹さんのことは二人にもよく話していたんですよ」

 至極優しい笑みを浮かべる優哉を見つめて、僕は胸を高鳴らせた。彼の家族に紹介してもらえるだなんて思いもしなかったから、なんだか自然と頬が緩みにやけてしまう。

「すごく嬉しい」

 親しい人に紹介してもらえるのは心を許してもらえる気がして本当に嬉しい。それが大切な家族ならばなおさらだ。

「そうだ。僕の実家にも近いうち行こうな。母さんが優哉に会いたがってる」

「佐樹さんのお母さんにも改めて挨拶しないとですね」

「うん、ありがとうな」

 旅立つ前に優哉は長らく傍を離れることを母さんにちゃんと伝え頭を下げてくれた。いつでも真摯な態度で母親に接してくれる優哉には感謝している。すごく大切にしてもらっているのが感じられて、嬉しさと喜びが胸の中いっぱいに広がっていく。
 この気持ち、どうしたら優哉に全部伝わるだろう。触れた分だけ伝わればいいなと思いながら、僕は優哉の肩に頬を寄せた。

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