始まり11
248/251

 優哉が帰ってきて二人で暮らすようになり、気づけばひと月以上が過ぎてもう少しで十一月になる。帰ってきてからも最初の話通り、優哉は向こうの実家と日本を何度か行ったり来たりして、傍にいないことも多くあった。
 思ったよりも一人きりの時間が増えて寂しく思った日もあったが、最近はそれも落ち着いてこちらに拠点が完全に移ったようだ。

 毎日忙しそうにしているけれど、家に帰れば顔を合わせることができる。もう離れ離れにならなくていい、そう思うとほっとした気持ちなる。そして今日は僕に合わせて予定を空けてくれるというので、ようやく二人きりで出かけられることになった。
 浮ついた気持ちでその日を迎え、寝室のカーテンを引いた僕は青空を見上げて思わず満面の笑みを浮かべてしまう。

「優哉、朝だぞ」

「ん、もう時間ですか」

「うん」

 昔はかなりひどい低血圧で目が覚めるのに時間がかかっていた優哉だったが、いまでは一声かけただけで目を覚ますようになった。僕より早く起きて出かけていく日もあるくらいだ。

「おはよう、佐樹さん」

「おはよう」

 身体を起こした優哉は腕を伸ばして僕を引き寄せる。そして口先にやんわりと口づけをしてくれた。優しいその感触に頬が自然と緩む。毎朝の挨拶となったこの行為が幸せな気分に浸らせてくれるのだ。
 何度も触れるだけの口づけを繰り返して、僕たちは顔を見合わせ笑い合う。ひとしきりじゃれ合うように触れ合ったあと、優哉は大きく伸びをしてベッドから抜け出した。

「そうだ。今日の予定だけど、家具を見に行ったあとに、食器とかも見に行きたいんだけどいいか」

「もちろん、いいですよ」

 今日は新しく家具を買いそろえるためにショールームへ出かけることにした。ベッドやソファのほかにも優哉の部屋に置く机や本棚も見る予定だ。それが済んだあとは特に用事を決めていなかったけれど、今朝なにげなく食器棚を開けて、食器も揃えたいなと思った。

 昔ひと揃えで買った食器などもあるのだが、長年使っているうちに破損したりして不揃いになっていた。優哉が毎日のように料理をしてくれるし、それに見合ったものが欲しい。
 二人で暮らすことになり、色々と欲が出てきたみたいだ。それに新しい生活を始めることにドキドキとしている。ここ何年も代わり映えのない生活をしていたから、優哉の存在がとても刺激になっているのかもしれない。

「朝ご飯はどうする?」

「そうですね。昼までそんなに時間があるわけじゃないし」

 ちらりと時計に視線を向けた優哉は少し考え込むように目を伏せた。時計は九時を示している。しっかり食べるには少し中途半端な時間だから、軽く腹に入れるくらいがいいのかもしれない。

「このあいだ焼いてくれたパウンドケーキがまだ残ってるぞ。食べるか?」

「そうですね。そうします」

「じゃあ、顔を洗って着替えてこいよ。珈琲落として準備しておく」

 洗面所に優哉を送り出して、僕はキッチンカウンターに置いてあるコーヒーメーカーに挽いた粉をセットした。そしてキッチンでドライフルーツがたっぷり入ったパウンドケーキを一センチ幅に切り分けていく。
 ずっしりとしたそれは見るからに美味しそうで、薄く自分用にカットして一切れつまんでしまった。ホイップクリームがあればなお美味しいのだが、いまは時間もないので我慢しよう。

「あ、なんか切ってると食べちゃうな」

 二切れ、三切れとつまんでいる自分に気がつき、慌てて必要な分を寄せると残りをフードケースに入れて片付けた。最近の優哉は主食の料理以外にお菓子も作るようになったのだが、これがまた美味しいのだ。
 祖母の美里さんがお菓子作りが趣味だったようで、それに習って色んな種類のお菓子を作れるようになったらしい。甘いものが好きな僕としては嬉しい限りだ。

「佐樹さん今日は早く起きたの?」

「あ、うん」

 身支度を調えた優哉がいつの間にかカウンター越しにキッチンを覗き込んでいた。その視線に気がついた僕は、皿にのせたパウンドケーキとコーヒーカップ二つを手に、カウンター側に回る。僕の手からカップを受け取った優哉は二人分の珈琲を注いでくれた。

「なんか早く目が覚めちゃったんだよな」

 今日はのんびりな予定を組んでいたのだけれど、いつもより早く目が覚めてしまった。出かけるのが楽しみで仕方がなかったのかもしれない。なんだか遠足前の子供みたいだ。

「起こしてくれてもよかったのに」

「んー、でも優哉は毎日忙しいし、休みの日くらいゆっくり寝たほうがいいと思って。それにそのあいだに色々やってたし」

 天気がよかったので洗濯もして掃除もした。それに今日行こうと思っていた、食器を売っている店をネットで見ているうちに、意外と時間が過ぎていた。けれどやはり起こしてあげればよかったかなと、不服そうな優哉の表情を見て思う。

「今度また早く目が覚めた時は声をかけるよ」

 カウンターにパウンドケーキの皿を置くと、優哉の隣にある椅子を引いてそこに腰掛けた。そして横で不満そうな顔をしている優哉の頭を撫でてやる。しばらくしかめっ面をしていたけれど、頬に口づけたら少し機嫌が直ったようだ。

「佐樹さんは食事は済ませた?」

「ああ、朝にパンは食べたけど」

「食べる?」

 皿が一つしかないのが気になったのか、優哉はフォークで綺麗にパウンドケーキを切り分けてそれを一口僕に向ける。

「うん、食べる」

 差し出されたパウンドケーキを、思わず勧められるままに食べてしまう。美味しいとわかっているから、目の前にあるとつい口が開いてしまうのだ。

「さっき切ってるあいだにも少し食べたんだけど、美味しいから手が伸びちゃうな」

「なくなったら、またお菓子を焼きますね」

「あ、この前焼いてくれたいちじくが入ったやつ。またあれ食べたい」

「ビスコッティですね。いいですよ」

「珈琲に浸して食べるのが美味しかった」

 美里さんの一番得意なお菓子で住んでる地方では代表的なお菓子らしい。固焼きのお菓子でそのままでも食べられるのだが、珈琲に浸したり、アイスをつけて食べたりするのもかなり美味しい。

「お前が帰ってきてから、あっという間に二キロくらい増えた」

「佐樹さんは痩せ気味だから、そのくらい増えて丁度いいんですよ」
 
 結局パウンドケーキは三切れあったうちの半分くらいは僕の胃袋に収まった。それでも優哉は満足していたので、とりあえずはよかったということにしておこう。

「そろそろ行くか?」

「そうですね」

 しばらくのんびりと珈琲を飲んで過ごしていたが、気がつけば時間は思ったよりも過ぎていた。家具を買いに行くショールームは十時半にオープンするはずだ。
 いまはもう十時十分前だから、移動時間を考えればそろそろ出かけてもいい頃合いだろう。使った食器を手早く片付け、僕たちは出かける支度をする。

「忘れ物はないですか」

「ああ、平気だ」

 白いパーカーの上に濃紺のジャケットを羽織る。ズボンは黒のデニム。足元は白いスニーカーだ。姿見の前で身なりを整えて、斜めがけにした鞄の中身を確認した。
 財布や携帯電話、小さなメモ帳など必要なものはきちんと入っている。どうやら忘れ物はないようだ。

 玄関先でこちらを振り返った優哉は、やんわりと目を細め近づく僕をじっと見ている。その姿に一瞬見惚れそうになった。
 彼はアイボリーのロングジャケットに黒のシャツ、黒のデニムというシンプルな装い。けれど背が高く手足が長い優哉は、相変わらずどこかの雑誌から抜け出たみたいに格好いい。

「行きましょう」

「ああ」

 緩んだ頬を誤魔化しながら頷いて、差し伸ばされた彼の手に僕は右手を重ねた。手を握りしめると極自然に指が絡み合った。